国際社会に於ける「弁解」と「謝罪」の相違
不幸な事実であるが、国際社会に於ける常識について著しく欠如している“島国”日本(“island country” isolated from common sense many people quite naturally recognize and understand in the international society)では、概して、「弁解」(excuse)と「謝罪」(apology)を同じような概念であると捉える人が多い。そこで本稿では、これら2つの概念(弁解と謝罪)について詳細に述べることとする。
世界に存する諸々の文明社会(the civilized societies in the world)に於いては、所謂、以下の点についての相当なる認識・理解は、「コミュニケーション上の基本の基本」と捉えられているのが一般的常識である。
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「弁解」(excuse)とは、自分が行った行為を正当化するために言い訳をする行為一般を指す概念である。
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「謝罪」(apology)とは、自己の過失、思い違い、理解の不足・欠如等を起因として犯してしまった過ち・罪などについて、その事実を認識・理解し、「その事実の認識・理解の下、相手に詫びる」という概念である。
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国際社会では、相手に謝罪を行う場合、「謝罪することを唯一の目的」としてその時間を捻出することは、所謂、「地球に存する一人の人間として『最低限の常識』(“the minimum common sense” as one of human beings standing upon this planet)」である。
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「何かのついでに行う『謝罪』」(他の異なる目的を有する機会と同一の機会に行う「謝罪」)は、『本来の謝罪』(a genuine apology)ではない。何かのついでに行う謝罪は、通常の場合、相手に更なる不快感を及ぼし、ひいては、「相互の信頼関係に於いて修復不可能な事態」を招く可能性がそこに内在する。
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基本的に、「弁解」(excuse)と「謝罪」(apology)は、それぞれ異なる概念である。それ故、自己の過失、思い違い、理解の不足・欠如等を起因として犯した過ち・罪などに関しては、それを弁解する行為においては何らの妥当性も存在しない。だが一方、そうした自己の過ち・罪などに対して、「相手に対して『妥当なる方法』でしっかりと謝罪を行うこと」は国際社会に於ける一つの常識である。