読み物カテゴリ: ‘哲学への招待’
「生まれた」(be born)という“受身”の生の意味
すべての人間は、この地球に生まれ、特定の国で教育を受け、やがて労働に従事する。「働く」という行為は、それ自体がどのような労働であっても、それを“真摯なる精神”で行うことにより、そこに「ある種の“尊厳性”(dignity)」が生まれ、人間は、徐々に、その尊厳性の中に「自身の働き甲斐・生き甲斐」を見い出すようになる。
世界のどのような人間においても、労働に労働に重ね、やがて“働き盛りの絶頂期”を経験し、その後、「自分の可能性における“限界”(limit)」について、確かな実感としてしみじみと感じ取るその日が到来する。
人間は、その限界を、地球に存する一個の存在者として、「この地球に生まれた」(was born here on the earth)という如き「『受身』としての存在者」として、「自分の存在の価値についての“意味づけ”」に関心を抱くようになる。そして、人間によっては、毎日試みる深い思索を介して、「真の意味において『自己を実現する』ということは一体いかなることを指すのか」という問題について自分なりの答えを導き出していく。
この答えを導き出した人間は、自分自身における人生の終焉を迎えるその日まで、「自分の存在の価値についての“意味づけ”」の具現(実現)に的を絞り、出し得るエネルギーのすべてを、「その“意味づけ”」の具現に向けて、世界で唯一無二と明言できる自己実現法を樹立するための厳格道を歩むようになる。
世界で唯一無二の自己実現法をしっかりと樹立するには、まず第一に、既に用意・準備されている「暖衣飽食の生活環境」を自らの意思で放棄することが必要不可欠である。“勇気を持って勇敢に”、自ら、自分自身を困難な環境に身をおき、日々、困難・苦悩と闘う日々を送ることが求められる。
人間は、日々、困難・苦労と真正面から向かい、“勇気を持って勇敢に”闘う日々を経験して初めて、「人間には一体どうして『理性』が賦与されているのか」という如き、人間存在の根本の根本としての究極的問題について「腹」で哲学することができるようになるのだ。
人間は、「人間には一体どうして『理性』が与えられているか」という如き究極的問題を「腹」で哲学する日々を続けると、人間は、やがて、”air saturated with reason”(理性で構築された空気感)の生み出し方、維持の方法、そして、その空気感を存分に満喫する方法について悟るようになる。
英語音声講義
⇒ 「生まれた」(be born)という”受身”の生の意味(英語音声講義)
「世界レヴェルの教養の基盤」を構築する”Breathable knowlwedge”
本稿では、「世界レヴェルの教養」の基盤となる”Breathable knowlwedge”を構築具現するための基礎的学習経験についての講義を行います。
読者の皆さんにおいては、まず第一に、「”breathable knowlwdge”とは如何なる概念なのか」ということについてしっかりと理解することが重要です。”breathable knowlwdge”の養い方について認識・理解に到達するには、以下の3つの英語音声講義について学習することが必要不可欠です。
長年、米ペンシルベニア州ラフィエット大学講師を歴任した生井利幸が直接教授する➊「国際教養塾」、及び、➋「英会話道場イングリッシュヒルズ・英語道弟子課程」に在籍する学習者においては、この学習経験は、まさに、「世界レヴェルの教養」を養うそのプロセスにおいて「基礎の基礎」と言うべき学習内容です。
講義1⇒ Breathable knowledge(英語音声講義)
講義2⇒ ”Tuning standard” in the Gallery in the Forest(英語音声講義)
講義3⇒ The meaning of one second(英語音声講義)
上記2校の学習者は、銀座3丁目の銀座書斎に加え、銀座書斎から徒歩13分の「森のギャラリー」(Gallery in the Forest)において、海外・国内において他に例のない英知・美意識の大空間において「世界レヴェルの英知・美意識」の構築具現への道を歩むことができます。以下において、2015年7月10日現在の「森のギャラリー」をご紹介します(森のギャラリーは、講師の教授内容によって、日々、変化(re-decorate)し続けています)。
学校の詳細
⇒ 国際教養塾
⇒ 英会話道場イングリッシュヒルズ、英語道弟子課程
「自己の『生の長さ』」を削って人類に警告を発した大哲学者、ニーチェ
19世紀後半に活躍したドイツの偉大なる哲学者、ニーチェ(Friedrich Wilhelm Nietzsche, 1844-1900)は、「人間は、まず第一に自らの本質を問い直し、厳しく辛い現実を直視し、その上で自分自身の力で逞しく生きなければならない」と唱えた。本来、人間が備えている「力強く闘おうとする意志」、即ち、「権力への意志」は、今現在、悲惨極まりないことに、<まったく生命力のない状態>と化してしまっている。今、西洋文明社会では、人間一人ひとりが持つ「権力への意志」は、まさに画一化の一方を辿り、個々の人間は、己の人生に於ける目標を見失ってしまっていると言わざるを得ない。
ニーチェは、このような時代の潮流を「ニヒリズム」と呼び、人類がこのような時代に陥った原因について哲学した。ニーチェは、自らの哲学を介し、このような問題を招いた最大の原因はキリスト教道徳にあると主張。ニーチェは、キリスト教の教義自体が、力強く生きようとする個々の人間を無思索状態とさせていると捉えた。
ニーチェは、西洋文明社会に於ける前述の如き時代の潮流を面前として、「神は死んだ!」と唱えた。ニーチェは、キリスト教が支配する奴隷道徳から人々が解放されることを切望したのだ。ニーチェは、「人間は、キリスト教道徳に代わる新しい価値観を自分の力で作り出さなければならない」と考えた。「神は死んだ!」、だから、我々人間は、自らの意志で力強く哲学し、「神ではない、何らかの生きる支え」を見い出さなければならないのだ。
ニーチェは、人間は、「権力への意志」を持ち、獅子の精神と小児の想像力をもって逞しく生きる「超人」にならなければならないと唱えた。そして、ニーチェは、「理想とする『超人』」とは、神のように彼岸にあるのではなく、現実を現実のものとして肯定し、「自己の『生』」を充実させることに全力を尽くし、力溢れる自己を生き抜く自由人、即ち、「力の意志の体現者」を指すのだと唱えた。ニーチェは、声を大にして唱える、・・・「すべての神は死んだ。今、我々は、超人が生きることを欲す」と。
承知の如く、ニーチェは、所謂、自らの命を削って「思索しない西洋文明社会」に対して警告の鐘を鳴らした哲学者として知られている。19世紀後半において、ニーチェは、既存の宗教観・価値観・思想に支配されていた人間社会に対して自ら「勇気ある偉大な警告」を発し、西洋文明社会に対して「今こそ目を覚ませ。今こそ、自分の力で思索し、自分の足で進め」と唱えたのだ。
ニーチェは、ドイツ・ザクセン州の牧師の子として誕生。ボンとライプチヒの大学で神学・哲学を修め、1869年、24歳の若さでスイスのバーゼル大学教授(古典文献学)に就任。しかし、その後、健康を害し35歳で大学を辞職。持病と闘いながら、厳しい孤独生活の中で深遠なる思索を重ね、命をはって執筆に取り組んだ。主著は、『ツアラトウストラはかく語りき』、『悲劇の誕生』、『人間的な、あまりにも人間的な』、『権力への意志』『善悪の彼岸』等。
この文章を書く私(わたくし)、生井利幸は、2014年を迎えた今現在は”東アジアの小さな島国”に生息しているが、私は、昔も今も「哲学することの重要性」を唱え続けてきた。私自身、専門は法律学(基本的人権保障)であるが、アメリカ等の大学に在職中、長い期間にわたって「考えることの重要性」「哲学することの重要性」を唱え続けてきた。2001年、アメリカ・ペンシルベニア州に在住中、「ちょっとだけ寂しさを哲学すると元気人間になれる」(リトル・ガリヴァー社)を執筆・発表。後の2003年には、オランダ王国フローニンヘンに在住中に「人生に哲学をひとつまみ」(はまの出版)を著し、当時の日本社会に本質的メッセージを発することに努めた。
日本社会では、人々は「哲学は難しい」と捉える。無論、哲学は難しいが、哲学は、”間違いなく”「最も重要な学問」であることも明白である。人類の未来は、「現代社会を支える現代人がいかに哲学するか」によって大きく変化するものだ。それ故、私は、”今日のこの日”も含めて、今後も、迎える一日一日において「哲学の重要性」を唱え続けていく所存である。
英語音声講義
⇒ Friedrich Wilhelm Nietzsche, 1844-1900(英語音声講義)
The substantial way to “genuine intellect and culture”
The voice lecture regarding the substantial way to “genuine intellect and culture” is provided. I hope you enjoy upgrading your intellect and culture through referring to the voice lecture.
英語音声講義
⇒ the substantial way to “genuine intellect and culture”(英語音声講義)
(基礎)形而上学として捉える”incoherence”
人類は、古代から、様々な”incoherence”に直面し、その都度、その時代に到達した「(限定的)『知』」の範疇内において、可能な限りの真理探究を試みてきました。
本日の英語音声講義は、所謂、(基礎)形而上学として、「理性的存在者としての人間は、どのような論理で”incoherence”を捉えることができるか」という基礎的な問題について講じました。
英語音声講義
⇒ the metaphysical value of incoherence(英語音声講義)
Genuine culture is produced at the risk of your life.
本稿では、「『真の教養』(genuine culture)とは、どのようなプロセスを介して養うことができるのか」という、人間存在における”極めて究極的な問題”について講じます。
言うまでもなく、「教養」の概念は、単なる「知識」(knowledge)とは本質的に異なる概念です。「真の意味における『教養』の養い方」を認識・理解するには、”上辺だけの知識”を得るという行為に先行して、まず第一に、「長年にわたる多種多様な人生経験」を備えていることが必要不可欠となります。
では、長年にわたる多様な人生経験を備えているという前提条件の下、人間は、真の教養を養う上において一体何を必要とされるのでしょうか。本講義においては、わたくし生井利幸が、全身全霊で「自身の身」を挺してこの問題について講じます。
英語音声講義
⇒ Genuine culture is produced at the risk of your life.(英語音声講義)
The significance to think the unthinkable in order to pursue the essence
英語音声講義
⇒ The significance to think the unthinkable in order to pursue the essence(英語音声講義)
Reading the Bible in consideration of the nature of human beings as a “science,” theology.
英語音声講義
⇒ Reading the Bible in consideration of the nature of human beings as a “science,” theology.(英語音声講義)
Wearing glasses poisoned makes you blindness in sciences.
いかなる学問分野においても、真理を探究するそのプロセスにおいて「固定観念」(fixed idea)を持ってしまうと、その探究者自身を「盲目」(blindness)にさせてしまいます。このたびは、学問を志す読者の皆さんに向けて「真理探究を志す上での必須の考え方」を講じています。
学問(philosophia, sciences)と共に生きている読者の皆さん、あるいは、これから学問の道に入ろうとしている読者の皆さん、是非、以下の英語音声講義を受講してください。世俗的な損得勘定、邪念・雑念を取り払い、心の中に「清らかな無の境地」を作り出した上で英語音声講義を聴き込むと、「真の意味での学問の道」が見えてきます。
英語音声講義
⇒ Wearing glasses poisoned makes you blindness in sciences.(英語音声講義)
トマス・アクィナス著、『神学大全』(Summa theologiae)における「人間の尊厳」
中世イタリアのスコラ学最大の神学者・哲学者、トマス・アクィナス(Thomas Aquinas, 1225-1274)は、同時に、ドミニコ会士、教会博士(doctor ecclesiae)としても知られている人物である。言うまでもなく、トマスの代表的著作は、所謂、『神学大全』(Summa theologiae)である。12世紀から13世紀にわたって多数のスコラ神学者(オセールのギレルムス、ヘイルズのアレクサンデルなど)によって『神学大全』(Summa theologiae)が執筆されたが、その中でもトマス・アクィナスの著作が最も評価が高いと明言できる。
トマスの『神学大全』は三部から成り、第一部の執筆は1266年、彼が41歳の時である。1274年、トマスは第三部の最終部分を仕上げようとしている時期に他界したが、ドミニコ会における彼の友人、ピペルノのレギナルドスが、トマスの『命題集注解』(Scriptum super libros sententiarum)から該当する部分を抜粋・編纂して完成させるに至った。
トマスは、「人間の生命」、そして「人間の尊厳・尊厳性」の概念について詳細に論じている。トマスが用いるラテン語のdignitasは、「尊厳」の他、「威厳」「品位」「重要性」「優位性」「威厳」「身分」「役割」などを意味するものだ。
トマスは、以下の如く述べる。即ち、「生命は、神によって人間に授けられた何らかの賜物であり、殺し、かつ生かすところの彼方の権能の下にある」と。これは、トマスが『神学大全』において述べた「人間の生命」についての大前提として捉えることができる。
キリスト教においては、旧約聖書以来、生命は神からの賜物であり、神と呼ばれる存在は、「命の道」を提供する「生ける水の泉」であり、且つ、「命の水」である。そして、新約聖書においては、神は、「豊かな命を与える者」であり、「生命を与える霊」であると述べられている。中世の神学者は、「神」や「生命」について、それらのすべてを聖書の立場から立脚して論じるのが通常であったが、トマスの場合はそうではなかった。
トマスは、それらを探究するにあたり、古代ギリシアの哲学者、アリストテレスから強い影響を受けた。トマスは、アリストテレスの著書『政治学』(Politica)の一節を引用。『神学大全』においてこの世に存在する生命・いのちの価値について格付けを行った。
トマスは、『神学大全』において次の如く述べる、・・・即ち、生命の”階級”は、(1)低位に位置する存在は「生きているもの」(vivum)、(2)中間に位置する存在は「動物」(animal)、(3)上位に位置するものは「人間」(homo)であり、(4)これらの最上位にあるものが命への導き手としての「主」である、と。
トマスは、植物のように生きているところのものは、一般的にはすべての動物のためにあり、そして動物たちは人間のためにあると述べる。したがって、もし、人間が植物を動物に役立たせるために使用し、動物を人間に役立たせるために使用したとしても、それは決して不当なことではない。この考え方は、アリストテレスが『政治学』第1巻第8章で述べているところからしても明白である、と述べる。
トマスによると、植物を動物の使用に供するために、また、動物を人間の使用に供するために殺すことは、”神的な秩序づけ”そのものからして許されている。これは、事物の秩序においては、「不完全なものは、より完全なもののために存在する」という大前提から出発し、生成のプロセスにおいても、まず第一に植物のように(1)「生きているもの」があり、次に(2)「動物」、そして(3)「人間」が出現したのであるから、本来、植物は動物のためにあり、動物は人間のためにあると解される。すべての人間は、所謂、”動物の一種”として捉えられる。そして、人間は、他の動物よりも上位に位置づけられている存在である。そうである理由は、人間には、理性によってなされる「『真理』についての認識能力」があるからである。
理性は、まさに「神の似像」(imago Dei)といえるもの。トマスは、「理性」と「知性」は、人間にあってはそれぞれ別の能力であると捉えることはできないとし、理性的被造物がそれ以外の被造物を越える所以のものは、まさに「知性」「精神」にあるとした。
非理性的な存在である動物や植物も、人間と同じように”神的な秩序づけ”によって維持されているのであるが、それらは「理性的生命」を持ってはいない。それらは、常に、他者を介して、「自然本性的な衝動」によって動かされているだけである。言うなれば、動物や植物は、<自然本性的な奴隷状態>にあるのであり、究極的には「人間の使用に供される宿命を背負っている」のである。
『神学大全』では、「人格の品位」「諸々の人格の重要性」「人格の威厳」「人格の重要性」という表現が用いられている。この「人格」という語は”persona”であり、「品位」「威厳」「重要性」という語は”dignitas”が用いられている。当初、トマスは、personaという語を、「神について適切に語られる」、あるいは「神に対して最高度に適合する」と定義づけをしていた。そして後に、何らかの”優越性”、つまり、dignitasの要素を有する人間(さらには、理性的本性を有するすべて固体)に対してpersonaと呼ぶようになった。
トマスは、理性的な本性において自在するところのものは「非常な優位」を持つ、と説く。ここにおいて、トマスは、人間を、”理性的なもの”と捉えていたことがうかがえる。
非常な優位・尊厳性を保持する者は、「理性」を巧みに作用させ、認識したり知的に捉えることができる限りにおいては、そうした存在者を人間として解することができる。トマスにおいては、非常な優位・尊厳性のある人間とは、いわゆる「理性的存在者」のみを指す。罪人や悪人などの非理性的動物としての人間は、確かに<ヒト>ではあるが、そうした者たちを「尊厳」の所有者とみなすことはできないとした。
注)
トマス・アクィナス(Thomas Aquinas)は、1225年、ナポリ郊外のアクィノ領・ロッカセッカ城で生まれ、5歳の時、モンテ・カッシーノのベネディクト会修道院に入り、後にナポリ大学で学んだ。1244年にドミニコ会に入会し、45年にパリでアルベルトス・マグヌスに師事する。1256年、神学教授資格を授与され、同年、第1回パリ大学神学部教授に就任。72年、イタリアに戻りナポリ大学などで教えていたが、2年後の74年に没した。