読み物カテゴリ: ‘哲学詩’
幸せの量は決まっている
幸せの量は決まっている
幸せの量、
これを、数字で表すことは不可能だ
幸せの量は、無制限にあるのか、
それとも、その量には限りがあるのか
人間は、
一つの幸せを得ると、
その後、一つの幸せを失う
幸せの量には、限りがある
それ故、他の人間よりもたくさんの幸せを得て、
貯金箱のように、そのたくさんの幸せをためておくことはできない
幸せの量には、限りがある
それは、冷蔵庫に入れる食材の量には限りがあることと同じことだ
世の中に、
たくさんの幸せをためておく貯金箱があったらいいのに
世の中に、
たくさんの幸せを、新鮮な状態で、
そっくりそのまま入れておく冷蔵庫があったらいいのに
かりに、幸せを保存できる冷蔵庫があっても、
その冷蔵庫の中に保存できる幸せの量には限りがある
幸せの量には、限りがある
限りがあるからこそ、
人間は、一つひとつの幸せを大切にする
幸せの量には、限りがある
人間は、この、”限り”の意味について、
年を取りながら、少しずつ悟っていく
大きな国と小さな国
大きな国と小さな国
世界地図を見てみよう
そうすると、地球には、
実に、たくさんの国があることを実感できる
地球には、
大きな国もあれば、
小さな国もある
今、
想像してみよう
大きな国を訪れると、
その国は、すこぶる広い
小さな国を訪れると、
その国は、すこぶる小さい
だが、”国の広さ”と、”人々の心の豊かさ”は、
それぞれ異なる代物
今、
想像してみよう
国の面積が広くても、
そこに住む人々の心が豊かであるとは限らない、ということを
本当の意味での”国の豊かさ”、
それは、そこに住む人々の”生き方の質”を指すものだ
生きるとは、考え、行うということ
生きるとは、考え、行うということ
考えない人がいる
考えなければ、
どんどんと時が過ぎ去り、
何ら、改善・発展することはない
考えない人がいる
考えなければ、
大切な人たちを幸せにすることはできない
考えない人がいる
考えなければ、
来る日も来る日も、意味のない空白の時間を持ち続けることになる
考えるということは、
単に、”考えること”を指すわけではない
考えるという経験、
それは、”生きること”
自分の人生を生きるということは、
自分自身が、
この世に存在するという実際について、
己の”誇り”と”責任”をひしひしと感じながら生きるということ
今、考えたならば、
その、”考えたこと”を、
己の手で行うに尽きる
人生は、
考えたことを行うか否かで、
大きく変わる
形と本質
形と本質
善に生きる
言うまでもなく、善に生きることは善
では、今、考えてみよう
”悪に生きることに善はあるのか”、ということを
一人の人間が、”形”としての悪に生きる
この生き方について、
本当に、”一事が万事において悪である”、と言えるのだろうか
無論、悪は悪
しかし、外見が悪に見えても、
その中身が善行である場合もある
総じて、形は形でしかない
人はしばしば、形に惑わされ、
その中身の真実について盲目になる
中身を見る目を養おう
そして、中身の真実を見極める能力を養おう
形と本質、
それらは、それぞれ異なる代物
人は通常、
姿形から感じる印象で、物事を判断する
典型の中で生きる人の場合、
”印象”の経験の中に理性的思考が存在することはない
一方、世の中には、
姿形に惑わされることなく、
その中に内在する本質を直視する人もいる
形に惑わされる人
本質を直視する人
この両者の間には、
実に、”雲泥の差”と言えるほどの相違がそこに存在する
心を洗う
心を洗う
自然な笑顔
ぎこちない笑顔
自然な笑顔は、素直で健やかな心の鏡
ぎこちない笑顔は、無理してつくる不自然な笑顔
良く考えてみよう
不自然な笑顔は、
”汚れた心の状態がそれをつくる”、ということを
早起きして、毎朝、心を洗ってみよう
心の汚れは、体の汚れと同じだから
人は毎日、汚れた体を洗う
しかし、どんなに体を洗っても、
心を洗わなけば、その心は”汚れたまま”
自然な笑顔は、
”生の質”を向上させる
生の質は、体だけでなく、
心を洗うかどうかで劇的に変わる
心を清潔にしよう
なぜならば、清潔な心が自然な笑顔をつくるから
炊煙の威力
炊煙の威力
何も感じない
何も想像しない
何も考えない
それ故、何もしない
このような時の過ごし方は、
悪い意味で、”時間の無駄遣いの果て”
怠惰が齎す生産性のない負の時間
この時間は、決して忿怒の時間ではない
忿怒は、しばしば時空を超越する
その理由は、
激情から湧き出る憤りに”際限”などないからだ
際限のない忿怒は、
無意識のうちに”時空の壁”を突き破り、それを越える
だが、怠惰が、時空の壁を突き破ることはない
情感は、人を動かす
動かないのは、情感が欠落している証
人は日々、
炊煙を立てる
力が出ないとき、
炊煙に顔を近付けてみる
いや、近付けるだけでなく、
その中に顔を入れてみる
人が人であるならば、
煙の中に顔を入れたとたん、一瞬にして目を覚ます
そして、”こうしてはいられない”と考え、
奮起し、動き始める
新たな芽生えには、土と水が必要
しかし、時として、煙が威力を発揮する
今、想像してみよう
炊煙には、
”煙の形状以上の意味がそこに内在する”、ということを
炊煙は、
元来、竈の煙
竈は、昔から、
人々に、”やる気”と”力”を与えてきた食の基盤となる場所
人間の美しさの源
人間の美しさの源
人間の声色は、
人間の内面の権化
人間の内面の真実を感じ取るには、
たとえば、外を歩いているとき、
植物の葉の揺れ具合を繊細に感じ取る力が必要だ
歩いているとき、無意識に歩くだけでなく、
目に入った葉の揺れの様相をしっかりと観察・把握し、
その揺れの意味と出所を知る力が必要だ
人間の顔色は、心の中の真実
心の中の真実は顔にあらわれ、
同時に、目にあらわれる
声色は、心の真実
知識の披露は、心の虚偽
嘘偽りは、邪道への入口
言うまでもなく、上辺の知識の寄せ集めが意味を成すことはない
人間にとって大切なことは、
一にも二にも、”心の清潔さ”
心の中が、清らか、且つ、無漏であるならば、
声色も顔色も、そして、目の表情も、
常に、眩しいほどの美しさでいっぱいになる
世俗的な欲から乖離し、
命で自分の真実に生き、そこで”一つの美”を感じたとき、
人間は、自ら、”真実に生きる意味と意義”に出会うことになる
情念の怒り
情念の怒り
思念、
それは、少しずつ道をつくるもの
思念の積み重ねが道をつくり、
その道は、やがて、”情念の礎”となる
長い年月をかけて思念に思念を重ねない人に、
頑丈な道はつくれない
”情念の怒り”、
この怒りは、無双の道をつくってきた人の怒り
人は、情念の怒りの面前では、
頭を垂れるしかない
人は日々、感じ、考え、
そして、考え、感じる経験を繰り返す
無双の道をつくってきた人が持つ”底が見えない情念”、
この情念は、その表面から底までの距離について、
数字で測り知ることなど不可能な”底無しの情念”
果して、世の中に、
この、”底無しの情念を源泉とする怒り”に平伏さない人が存在するのであろうか
哲人の収斂
哲人の収斂
凄寥の空気感の中、
たった一人で食を楽しむ哲人
テーブルには黒い皿
そこに、良く冷やした一丁の豆腐
豆腐に葱と生姜をのせ、
仕上げに微量の醤油
哲人は、
一丁の豆腐を一時間かけて食する
一時間という時空間
この時空間は、単なる食の時空間ではない
この時空間は、哲学するための時空間
哲人は、たっぷりと時間をかけて豆腐を食し、
理性で葱を噛む音を聴き込み、
噛む音を介して、一つひとつの課題を咀嚼し、哲学する
生姜は、豆腐を食の礎とする哲学の時空間を鋭敏にさせ、
哲人を、収斂の世界へと導いていく
収斂は、甘味の世界か、
それとも、苦味の世界か
普遍的境地において、
苦味は、甘味を超越する
哲人は、自らの血を流しながら、苦味の境地を何度も経験する
そこには、何のためらいもない
たった一回のためらいさえない
哲人の周辺を良く見渡しても、
ためらいの”欠片”さえない
”少な目”の美意識
”少な目”の美意識
量をとるか、
または、質をとるか
人は大抵、量をとる
人は、”多ければ多いほど良い”、と考える
だが、量の多さは、
ものの価値について盲目にさせる
本当に、
多ければ多いほど良いのだろうか
いや、むしろ、
少な目を”良し”としたいものだ
少な目は美しい
少な目を良しとし、
少な目の美意識を磨いていくと、
ものの価値、そして、ものの真価について感じ取れるようになる
人は、”美しくなりたい”、と考える
美しくなるには、
量に惑わされないことだ
少な目の美意識
ほどほどの美意識
足りている、と捉える美意識
足りていないとき、
”足りている”と捉えた瞬間、
人は、美しさに内在する本質的要素の一側面を感じ取る