読み物カテゴリ: ‘哲学詩’
旧怨を水に流す意味
旧怨を水に流す意味
人の生き方は、
それぞれ異なる
旧怨を持ち続けながら生きる人
旧怨を水に流す人
人によって、生き方は様々だ
人が歩む”道”
歩む過程の”質”
道も質も、まさに自分次第で劇的に変わる
道は、自分で探し出し、自分で歩むもの
質は、自分で改善するもの
賢者は、躊躇することなく、
旧怨を水に流す
旧怨を水に流すならば、
余生における道も、余生そのものの質も煌煌と光り輝き、
自分にとっても他人にとっても、より価値あるものになっていく
不必要なこだわりは、まさに不必要
まずはじめに、
自分を縛っているこだわりから自分を解放させよう
空しさが導く、”真の生きる喜び”
空しさが導く、”真の生きる喜び”
空しさ、
それはどこからやってくるのだろうか
人は、日々、
楽しい時間を持ちたいと切望して生きている
楽しい時間は必要だ
だが、度を越えて楽しさを経験すると、
何をしても楽しくなくなる
今、哲学してみよう
人は、楽しい時間を持ち過ぎ、それに飽きたとき、
空しさの境地に入る、ということを
何も挑戦しない人に、
意味のある空しさはやってこない
一方、迎える一日一日において、
挑戦し、また、挑戦し、決して諦めることなく挑戦し続ける人には、
やがて、深遠なる空しさがやってくる
真の空しさの意味は、
たくさんの人生経験を積み重ねなければわからない
経験を積み重ねた人が遭遇する空しさは、
より確かな道のりへと導いてくれる
人は、その道のりを歩み始めたとき、
命で、真の生きる喜びを感じ取る
体を使う期間
体を使う期間
考えてみよう
生きる期間と、体を使う期間は、
それぞれ異なる期間であるということを
あと何年、生きることができるのだろうか
あと何年、体を使うことができるのだろうか
体を使うということは、
働くということ
働けるということは、
実に幸せなこと
なぜならば、毎日、精一杯働くならば、
自分も、そして、他の人々も、
共に幸せになれるから
真の愛への糸口
真の愛への糸口
人は食べる
人は何のために食べるのか
食べるのは生きるためだ
生きるには栄養が必要だ
人は何のために生きるのか
自分の幸せのためか、それとも、不幸のためか
本当の幸せとは何か
自分だけが幸せになって、それで良いのか
自分の子は、自分と同じ
自分の子を幸せにすることは、自分を幸せにすること
他人の子は、他人の子
他人の子は、言うまでもなく、自分の子ではない
しかし、子は子だ
人は、誰が産んだ子でも、
子を子として同じように捉えるようになったとき初めて、
真の愛への糸口を見る
人類は、常に、愛が必要だ
人類は、この愛を人類愛と呼ぶ
人類愛を現実にする道のり
それは、果てしなく遠く長い道のりなのか、
それとも、一人ひとりの意識があれば今日のこの瞬間から歩める道のりなのか
この星の歩みの一滴
この星の歩みの一滴
太古の昔、
わたしたちは水の中にいた
水の中で、わたしたちは何も考えなかった
やがて、わたしたちは陸に上がった
陸では、やがて知恵を持った
知恵を持ったわたしたちは、たくさんの時代をつくった
時代をつくってきたわたしたちは、
果して幸せになったのであろうか
未来において、
時代の果てはあるのだろうか
それとも、わたしたちは、いつまでも永遠に、新しい時代をつくっていくのだろうか
いつの日か、
時代の果てがやってくる
そのとき、わたしたちの姿はどこにもないだろう
天上の声
天上の声
人は日々、声を聞く
人は、声を聞き、影響され、そして、動く
声には、
聞こえる声と、聞こえない声がある
人の声は、時に、人を惑わす
天上の声は、常に、人を正道に導く
より善く生きようではないか
いつの日か、
天上の声が聞こえるように、
自分の心を清め、磨いてみよう
いや、心を磨くだけでは足りない
心を磨くだけでなく、
心を磨き抜いてみよう
そうすれば、やがて、
今まで聞こえてこなかった声が聞こえてくるだろう
身の毛がよだつ
身の毛がよだつ
この上ない恐怖を感じ、
その恐怖におののくとき、
身の毛がよだつ
見える恐怖
見えない恐怖
本当の恐怖は、
目に見えない恐怖
人は、恐怖に接したとき、
恐怖の前で、何もできなくなる
敏感と鈍感
人は、敏感を崇拝する
だが、敏感が善であるとは限らない
人は通常、鈍感について考えることはない
考えることはないが、人は、鈍感であればあるほどに、罪を犯す
敏感と鈍感
鈍感ほど、怖いものはない
Is it simple to live or not?
Is it simple to live or not?
What you need is only one remove from what you don’t need
Because what yuou need can be often interpreted as what you don’t need
To live is to choose what you need in your life
To die is to finish choosing the ones you need in your life
To live or to die
Is thetre any big difference between the two?
When you have a day not to choose anything out of your greed
you are ready to live supernatually
To live naturally,
Or, to live supernaturally
When you have a day not to feel anything different between the two,
you have a totally different day to live
Circumstances alter cases
What you need is changed in accordance with the circumstances you face
英知の果て
英知の果て
人は通常、慣れていない道を通るとき、
その道幅が広いほうがよいと考える
道の幅
広いほうがよいのか、それとも、
狭いほうがよいのか
究極の境地を目指す人の道の幅は、常に狭い
しかも、前に進めば進むほどに、道の幅が狭くなる
前に進むほどに狭くなる道を歩む人は、
前に進むために命をはる
道は、前に進めば進むほど狭くなるが、
道の両脇と上下を見ると、
前に進めば進むほど、途轍もなく広大な英知の時空間が広がっていく
この、“広大なる英知の時空間”
この、“地域を超越した普遍的英知の時空間”
この広さとその様相について、現在の人類が、数字で正確に表すことは不可能だ
英知の時空間
そこに、果てはあるのか、
それとも、果てはないのか
日々、命で哲学する人は、
やがて、“人には、このことを考える特権が与えられている”という、
永遠不変の理法を知る
理性の怒り
理性の怒り
怒りは二つある
一つは、“感じる”という経験を通して生じる怒り
もう一つは、“考える”という経験を通して生じる怒り
今、考えてみよう
心の中に平和があり続ける人に、時として“怒り”が生じることがあるだろうか、と
巷には、穏やかな心の持ち主が多い
だが、その穏やかさは、果して、“深遠なる思索の蓄積を源泉とする穏やかさ”なのであろうか
思索から生まれた穏やかさ
無思索であるが故の穏やかさ
理性的存在者は、日々、価値ある思索を蓄積し続ける存在者だ
価値ある思索を蓄積し続ける存在者が理性的に抱く“怒り”、
この怒りこそが、“理性の怒り”
“理性の怒り”、
この怒りは、やがて“理性の声”へと進化していく