“思索存在”社会の創造・・・「自分は一体何者なのか」という問題について考えたことがありますか
”An Englishman’s house is his castle.”(イギリス人の家は各人の城である)、・・・この諺は、「プライバシーの尊重」の重要性を述べる諺として広く英米社会で使われている諺です。この日本の現代社会に生きる私自身も、迎える一日一日において、「自分の家は、自分自身の唯一の城である」という精神基盤を下にプライベート・ライフを送っています。
私は、毎日、“実にシンプルなライフ・スタイル”を送っています。例えば、仕事が終わり一旦家に戻ると、そこは、2013年の現代社会とは思えないほど「静寂、且つ、簡素な生活空間」で過ごしています。私は現在、都心のマンションに住んでいますが、部屋の中はまさに「森」です。リビングルームには、四方八方、天井まで届く観葉植物、そして、大小の様々な植物が置かれています。また、バルコニーのコンセプトは、「緑に囲まれた“空中リビング・ルーム”」。たくさんの背の高い木々が置いてあるバルコニーは、屋根のないバルコニーです。この空間では、昼間は太陽の光をダイレクトに満喫し、夜はたくさんの星を見ることができます。
自宅では、天気のいい日には、バルコニーで食事をし、仕事もします。バルコニーでは、自分の手で新鮮な野菜を育て、毎日、自分で育てた野菜を食べています。「自然」(nature)と共に毎日がある私のプライベートライフは、いわゆるインターネット、メール、テレビ、スマートホン等とは全く無縁の生活です。住まいは都心ですが、その生活の実態は、まさに”primitive life”(原始生活)そのものです。日々の生活は極めて”primitive”(原始的)ですが、実のところ、この原始生活にこそ「斬新的思索の”究極”」(the “ultimate” of novel consideration)の源泉が存していると明言できます。
“ものを書く”という行為を「人生における最大のミッション」としている私は、プライベート・ライフにおける最重要ポイントは、常に「深遠なる思索をするための最適の空間」を確保するということです。ご承知のように、この現代社会は、実に様々なネオン・雑音が交錯する<雑多な情報社会>です。無論、情報は必要です。しかし、情報には、二つの種類の情報があることに留意すべきです。一つは、1)「自分にとって必要な情報」、もう一つは、2)「自分にとって不必要な情報」です。
残念な事実ですが、現代社会は、非理性的に、1)「必要な情報」と2)「不必要な情報」が混在する<“度を越した”情報社会>です。多くの人々は、過度に氾濫した情報に依存するあまり、しばしば「独立した一個の存在者」としての自分を見失い、責任不在の情報に惑わされ、知らず知らずのうちに安易な方向性へと”誘導”・”扇動”されてしまっています。今ここで、読者の皆さんがこの現象を客観視したとき、そこに何が見えてくるでしょうか。読者の皆さんが深い思索を介して世の中を静観するならば、恐らく、今、現代人に求められる“あるべき生き方”とは、毎日、安易な情報に溺れた日々を送ることではなく、<自分の力で思索し、自分の力で自分の道を切り開く>という「古代から人間が経験してきた“本来における人間の生き方”」について再認識する重要性を感じるのではないでしょうか。
どのような人においても、「原点」に戻るには、それなりの「勇気」と「覚悟」が必要となります。読者の皆さん、“勇気を持って勇敢に”、是非、「自分の力で思索する日々」を送るように心掛けてみてください。自分の力で思索すると、必ず、「自分の本当の姿」、そして、「本当の意味での自分の立ち位置」について少しずつ見えてきます。
仕事柄、私にとって、「思索すること」は、何よりも大切な行為です。私にとっての思索とは、1)「“生きる”ということそのもの」、そして、2)「自分の人生におけるミッションを遂行する上で必要不可欠な行為」といえるものです。「深い思索をする日々を送るためには、一体どのような生活環境を構築する必要があるのか」、・・・この問題は、私が常に考えているテーマの一つです。本稿においては、この銀座書斎エッセーを読む読者の皆さんも、是非、私と一緒に「深い思索をするための方法」について考えていただきたいと切望しています。この問題、即ち、「思索の重要性」について一緒に考えたいという読者の皆さんは、是非、銀座書斎に訪問していただき、わたくし生井利幸と共に、何らかの具体的観点・事例を出発点として「思索の重要性」についてお話しする機会を持っていただきたいと願っています(⇒茶話会のお知らせ)。
この「思索の重要性」について、いわゆる社会全体の問題として考えると、「社会における“無思索状態”の風潮」は、「個々の人間の心の中における”dehumanization”(人間性喪失)」を次第に助長してしまっていると私は捉えます。”dehumanization”が進んでいくことを防ぐ唯一の方法は、「思索する世の中」(“思索存在”社会)を作っていくということです。毎日の生活において、現代の日本社会を構成する私たち人間一人ひとりが、“草の根的に”、少しずつ「思索する世の中」へと進んでいく努力をしていけば、徐々に「”humanization”(人間性回復)への道のり」を歩むことができると私は考えます。常に、一人ひとりが協力し合い、少しずつ、心を込めて丁寧に、1)「理性ある世の中」、2)「人間性のある世の中」、そして、3)「心豊かな世の中」を創造していくことが求められています。
英語音声講義
⇒ “思索存在”社会の創造・・・「自分は一体何者なのか」という問題について考えたことがありますか(英語音声講義)