「生まれた」(be born)という“受身”の生の意味
すべての人間は、この地球に生まれ、特定の国で教育を受け、やがて労働に従事する。「働く」という行為は、それ自体がどのような労働であっても、それを“真摯なる精神”で行うことにより、そこに「ある種の“尊厳性”(dignity)」が生まれ、人間は、徐々に、その尊厳性の中に「自身の働き甲斐・生き甲斐」を見い出すようになる。
世界のどのような人間においても、労働に労働に重ね、やがて“働き盛りの絶頂期”を経験し、その後、「自分の可能性における“限界”(limit)」について、確かな実感としてしみじみと感じ取るその日が到来する。
人間は、その限界を、地球に存する一個の存在者として、「この地球に生まれた」(was born here on the earth)という如き「『受身』としての存在者」として、「自分の存在の価値についての“意味づけ”」に関心を抱くようになる。そして、人間によっては、毎日試みる深い思索を介して、「真の意味において『自己を実現する』ということは一体いかなることを指すのか」という問題について自分なりの答えを導き出していく。
この答えを導き出した人間は、自分自身における人生の終焉を迎えるその日まで、「自分の存在の価値についての“意味づけ”」の具現(実現)に的を絞り、出し得るエネルギーのすべてを、「その“意味づけ”」の具現に向けて、世界で唯一無二と明言できる自己実現法を樹立するための厳格道を歩むようになる。
世界で唯一無二の自己実現法をしっかりと樹立するには、まず第一に、既に用意・準備されている「暖衣飽食の生活環境」を自らの意思で放棄することが必要不可欠である。“勇気を持って勇敢に”、自ら、自分自身を困難な環境に身をおき、日々、困難・苦悩と闘う日々を送ることが求められる。
人間は、日々、困難・苦労と真正面から向かい、“勇気を持って勇敢に”闘う日々を経験して初めて、「人間には一体どうして『理性』が賦与されているのか」という如き、人間存在の根本の根本としての究極的問題について「腹」で哲学することができるようになるのだ。
人間は、「人間には一体どうして『理性』が与えられているか」という如き究極的問題を「腹」で哲学する日々を続けると、人間は、やがて、”air saturated with reason”(理性で構築された空気感)の生み出し方、維持の方法、そして、その空気感を存分に満喫する方法について悟るようになる。