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哲学詩(最新作の掲載)

2023-08-13

空虚な感覚

空虚な感覚、
果してこれは、本当に”哀れな感覚”なのか

そもそも、人は、
幼い頃に、空虚な気持ちになることはない

子供の心は純粋だ
子供は、純粋であるが故に、
善と悪をはっきりと区別する

子供には、
”穢れのない活力”が漲(みなぎ)っている

この、穢れのない活力は、
純粋であるが故に湧き出る力

子供が大人になると、
皆、たくさんの経験をする

良い経験、
そして、悪い経験

大人になるとは、
一体どういうことなのか

人が、大人になれば、
”人は、様々な経験を積んで成長する”ということを悟る

空虚な感覚

この感覚は、
努力することなく、
汗を流すことなく、
いたずらに抱く感覚なのか

それとも、自分の命で、しっかりと世の中を見、
毎日、迎える一秒一秒において針の先端に立ち続け、
常に、限界の限界まで努力し、
”世の中の真実”を達観した人が、
確かな実感として感じ取る感覚なのか

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理性法が定める”程度の問題”

理性法、
それは、地球に生息する人類が理性的に捉える理法

理性法、
それは、理性によって理解する不可避的摂理

理性法、
それは、理性が導き出す原理原則

世の中には、
人間にとって美味しい側面、
そして、美味しくない側面がある

人間は、生来、
”欲張り”だ

人間はそれぞれ様々だが、
人間によっては、
常に、”美味しいところ”だけを取る者もいる

理性法には、
常に美味しいところだけを取る者は、やがて、
その美味しいところが取れなくなるという理法が存在する

何事においても、
”程度の問題”がある

人間が、この、程度の問題における”程度”を知り、
それを維持し続けるには、
いつ何時においても、理性的存在者として、
針の先端に立ち続けなければならない

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心の力に限界はあるのか

人は、
時々、疲れる

疲れたときは、
体を休ませよう

人は、
時々、怠(だる)くなる

では、怠くなったとき、
一体どうしたらよいだろうか

怠くなるとは、
身の力も、心の力も、
”消耗し尽くした”という状態

身の力、
そして、心の力を使い切ったという経験がない人に、
疲れた様相と、怠くなった様相の違いについて、
それを、”己の実感”としてわかることはない

怠くなったとき、
休むだけでは足りない

では、どうしたらよいだろうか

その答えは、
心の力を消耗し尽くした人にしかわからない

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足下の意味

賢者は、
日々、どこを見ているだろうか

賢い存在者であるならば、
常に、遠い未来を見ているに違いない

では、賢者は、一事が万事において、
遠い未来ばかりを見ているのだろうか

未来とは、
一体いつの時代を指すのだろう

10年後か、
20年後か、
それとも、100年後か

少しだけ考えると、
わかることがある

それは、今現在の時刻の”1秒後”も、
”未来の一部”であるということだ

毎日、迎える一秒一秒を命で刻む存在者にとって、
未来とは、数年後、数十年後の未来を指すわけではない

人間は、毎日、一秒一秒を経験しながら、
同時に、一秒一秒連続して、”直近の未来”を迎えている

今迎える一秒について、
それを最高の状態で迎え、
太陽の光の如く輝かせよう

今の一秒を輝かせる存在者は、
10年後の自分の生き方ではなく、
”今現在の自分の生き方”を輝かせる

今現在、輝いている存在者は、
自分の命で、しっかりと”自分の足下”を見ている

私は、自分の足下を見ない者が、
確かな先を見、
確かな歩みをした、という話を聞いたことがない

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技術的理性

言う、
言わない

この両者に、
何らかの違いはあるのか

理性的存在者は、
この両者において、
相当なる違いについて、”理性的”に捉える

非理性的存在者は、
”非理性的に”言って、
物事に混乱を生じさせる

理性的存在者は、
”理性的に”言わずに、
物事を制する

言う、
言わない

言わない技術、
私は、この技術を、
”技術的理性”と呼ぶ

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末期の水の味

人間が目指す最高峰の境地
人間は、最高峰の境地を、
”究極的境地”と呼ぶ

究極的境地、
この境地は、本当に実在するのだろうか

人間は、常に、
より上を見ている

日々、自分を律し、戒め、
戒め、律し、
より崇高な境地に到達しても、
人間は、さらに、より崇高な境地を目指す

どのような人間でも、
自分が目指す境地に到達した瞬間、
より高いところに、より崇高なる境地を見る

結局のところ、
人間が目指す境地に終りはない

末期の水の味は、
末期を迎えなければ、
それを知ることはない

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卓袱台(ちゃぶだい)を前にして哲学する

人間の幸福、
それは一体、どのように量ることができるのだろうか

言うまでもなく、
幸福の量について、
これを正確に量る方法はない

私は今、
哲学する

人間は、
自分の幸福度について、
自分の心の中で、
自分が実感する”心の満足感”の量によって、
自分自身の幸福度を量るのだ、と

本来、自分が幸福であるか否かという問題は、
自分自身で感じ取り、
それを判断するもの

他人が、自分が幸福であるか否かについて判断することなど、
まさに、”愚の骨頂”そのもの

四畳半一間で、
小さな卓袱台だけで生活する

自分が今、
この質素な生活を”幸せ”と感じるだけで、
ここに、”最高の幸せ”が存在する

卓袱台だけの生活
静かに哲学するとき、
ここは、まさに”最高の空間”

卓袱台を囲み、
ここには、広大に広がる宇宙空間がある

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顔の表情

顔の表情、
それは、心の鏡

顔の表情、
それは、一人の人間としての表玄関

人は、表玄関の印象次第で、
そこに入るか否かを判断する

顔の表情、
それは、人生経験の鏡

顔の表情には、
本人の生き様そのものが、
そっくりそのままの形で露見する

人生の半ばを過ぎたら、
自分の顔の表情に責任を持とう

人は大抵、
他人を、顔の表情で判断するから

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待つ意味

待つという行為には、二つある

一つは、待つということに意味があるもの
もう一つは、待つこと自体、意味のないもの

待つとき、
単に待つのみでは、
大切な時間を無駄にするだけだ

待つなら、
考えながら待ってみよう

待つなら、
行動しながら待ってみよう

感情を静め、
平常の心で待ってみよう

そうすれば、やがて、
待ち続けていたことに意味があったのか、
それとも、何らの意味もなかったのか、
はっきりとわかる日がやって来る

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改めて、”生”を哲学する時

鈍感か、
それとも、繊細か

人生において最も大切なことの一つは、
自分の愚かな行いについて、
それを、敏感に、そして、繊細に感じ取るということ

果てしない宇宙において人間存在を捉えるとき、
ちっぽけで、悲しい真実が見える

その真実とは、
ほとんどの人間は、
このことについて頗る鈍感であるということ

鈍感は、
幸いなことか、
それとも、悲惨なことか

人間は、
自分自身が持つ”鈍感”の悲惨さについて感じ取れた時、
改めて、より本質的に、
”生”を哲学する時を迎える

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