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末期状態患者の「死ぬ権利」(right to die)について

2001年4月10日、オランダ上院は、安楽死合法化法案を可決した。この法案は、一定要件を満たした場合、安楽死を刑法上の
犯罪から除外するもので、賛成46・反対28(欠席1)という賛成多数で可決(下院においては2000年11月に可決済み)、オランダ
は世界で初めて安楽死を合法化した国となった(1)。オランダでは、無意味な延命治療を行わないとする尊厳死に加え、耐え難い苦痛
に苦悩する終末期症状の患者が薬物投与などの措置を採って安楽死することが社会的に容認されており、末期状態患者の「死ぬ
権利」はある程度の市民権を得ていた。むろん、医師にとっては、安楽死は、刑法上の自殺幇助罪に該当するものであるが、患者が
自ら望んだ場合などの一定の要件を満たしていることを前提条件としてそれが慣習化されている。2001年4月10日において、オラ
ンダ上院で可決された安楽死合法化法の骨子は以下の如きである。

 1) 一定要件を満たす安楽死を行った医師に対しては刑事訴追しない。

 2) 安楽死が成立するための要件としては、a.患者の自由意思による安楽死の要請があり、b.耐え難い苦痛が続き何ら回復の
   見込みがないこと、c.代替治療法がない、などを設定。

 3) 担当医師は、別の医師最低1人と協議すること。

 4) 医師や法律家らで構成され地域評価委員会が安楽死に関する報告を審査する。

我が国においては、言うまでもなく安楽死立法の経験はない。判例としては、これまで安楽死事件に関する裁判所の判断は7件ほど
存在するが、その中で最も注目を浴びた事件は平成7年の東海大学医学部付属病院「安楽死」事件判決(2)である。同事件は、
多発性骨髄腫で入院していた58才の患者の病状が急変し末期状態となった際、患者の家族から要請された担当医が点滴やフォー
リーカテーテルを外し、塩酸ベラパミル製剤や塩化カリウム製剤を注射して患者を死に至らせた事件である。ちょうどその当時のアメリ
カでは、1990年に遷延性植物状態患者から胃チューブの撤去の是非をめぐって争われたナンシー・クルーザン事件(連邦最高裁判
決)(3)が全米で激しく議論され、日本のみならず世界中で注目を浴びることとなった。

人類は21世紀を迎え、日本は今後、徐々に高齢化社会へと移行していくわけであるが、医学の発展と共に論議されてきた延命治療
の実施の是非について、更に議論が活発化されることが予想される。終戦直後、昭和23年(1948年)、最高裁において、「生命は
尊貴である。一人の生命は、全地球よりも重い」とした判決理由(4)はあまりにも有名である。これは、最高裁がイギリスのサミュエル・
スマイルズ(Samuel Smiles, 1812-1904)の『自助論』(Self-Help)を引用して述べた部分であるが、この一節は、人間の生命の重さを
示唆する見解として捉えることができる(5)

しかし乍ら、実際の医療現場において、延命治療を行うために体中をチューブで繋がれるという如き状態を余儀なくされた患者、
いわゆる末期状態患者が、「人間らしく"尊厳"を持って死に至りたい」という一個の"尊厳ある人間"(human being with dignity)として
の意思表明をすることがしばしばある。そうした個人としての人間が主張し得る権利として「死ぬ権利」(right to die)を許容すべきか否
かという問題を検討する際に、「"人間の尊厳"(human diginity, the dignity of man, die Wurde des Menschen, dignitas hominis)とは
一体何か」という人間存在における極めて根本的な問いが浮上してくる。

1949年5月4日に採択されたドイツ連邦共和国基本法(Grundgesetz fur die Bundesrepublik Deutschland)は、その第1条第1項に
おいて、「人間の尊厳(Wurde)は不可侵である。これを尊重し、かつ、保護することは、すべての国家権力の義務である」(5)と規定して
いる。この基本法においては、特に「人間の尊厳」についての定義づけはしていないが、通常、憲法学者は、人間の精神性、
人格性、(責任が伴う)自己決定や自己形成の能力などを包含して、これを解釈する。それでは、このように「人間の尊厳」は不可侵
ではあるが、死ぬ権利を検討する上で必ず考えなければならない問題、つまり「生命の尊重」と如何なる関係があるのであろうか。

「人間の尊厳」と「生命の尊重」について、ホセ・ヨンパルト教授が示す相互関係を用いれば、この関係は、≪人間の尊厳→生命の
尊重≫ではあるが、≪生命の尊重→人間の尊厳≫ということではない(6)。これは、つまり、「人間の尊厳」という概念から「(人間の)
生命の尊重」が価値が出てくるということだ。もちろん、「生命」という概念には、人間・動物における格差はないと考えるべきである
(7)、「人間の生命」(人命)の尊重は、言うまでもなく人間に限るものであり、それは他の動物の生命よりも(生物学的にも医学的に
も)高い価値がそこに存するのだ(8)。これは、「”人間の生命”と”動物の生命”は同格ではない」ということを意味するものであり、
「生命の尊重」、つまり「(人間の)生命の尊重」は、必然的に、「人間の尊厳」という範疇から導き出る価値として捉えられる。

ここではまず、患者の「死ぬ権利」、即ち、安楽死と尊厳死の概念について簡単に概説し、双方における性格の相違を述べることとし
たい。安楽死は、英語ではeuthanasiaと呼ぶが、この言葉は、17世紀においてイギリスの司法官、政治家、哲学者として活躍した
フランシス・ベーコン(Francis Bacon, 1561-1626)によってギリシア語のeuとthanatosを合成して作られた言葉である。euはnoble
(崇高な、気高い、高貴な)あるいはgood(良い)という意味を持ち、thanatosはdeath(死)を意味する。それ故、本来、euthanasiaとい
う言葉が包含するニュアンスは、「崇高で良き死」であることがわかる。今日の医療現場において、耐え難い苦痛を余儀なくされてい
る患者が、麻酔(anesthesia)(9)などによって痛みを緩和しながら可能な限り苦痛を回避して死を迎えることを「純粋安楽死」と呼ぶこと
があるが、これは、医療行為の一つとして広く容認されているものだ。しかし、実際、今日の現代社会においては、総じて、安楽死か
ら、このような、「崇高で良き死」というニュアンスなど、到底感じ得るものではない。言うまでもなく、安楽死は、通常、「不幸や苦痛に
満ち溢れた、”屈辱的、あるいは非人間的な状態”から逃れる」という目的達成のために迎える死であると解されている。

さらに具体的に述べるならば、安楽死は、「”安楽”にされるための死」という意味で使われている概念である。このような意味合いで
安楽死を最初に提唱したのは、イギリスの人文主義者・著作家であるトマス・モア(Sir Thomas More、 1478-1535)である。トマスは、
著書『ユートピア』(Utopia)において、ヒューマニズムの立場から安楽死肯定論を展開することに努めた。我が国日本では、森鴎外
(1862-1922)が小説『高瀬舟』の中で、日本人としては初めて安楽死の問題について触れた。また、鴎外は、『高瀬舟縁起』という
小文を発表し、さらに具体的に安楽死の概念を述べた。 

トマスや鴎外が述べた如く、近代における安楽死の概念とその意義については、「死」が直ぐ目前に迫っている者、とりわけ、死苦に
置かれた者をそのままの耐え難い状態で放っておくのではなく、「早くその者の生命を終焉させるように措置をした方が本人にとって
はより人道主義的である」という考え方に傾向しているものだ。しかし乍ら、一方では、如何に苦悩に満ち溢れた「生」であるとしても、
神が人間に与えた賜物である生を、人間の勝手な解釈によってそれを人為的に断ってしまう行為は、たとえ如何なる正当化
(justification)を試みようとも決して許させ得ないと解する宗教的な価値観が存在することも無視することはできない。

次に、尊厳死(death with dignity)について述べることとする。承知の如く、安楽死は人間の歴史において極めてオーソドックスな問題
として扱われているが、尊厳死に関しては、根本的にその性格が異なるものだ。即ち、尊厳死は、戦後、医学が目覚ましい発展を
成し遂げた波及効果として現れてきた概念である。医学の発展は高度な延命治療を可能としたが、その反面、本来であれば末期
状態にある患者は”ごく自然な死”を迎えるはずなのであるが、行き過ぎた延命治療によって、多くの患者が、「人間としては極めて
不自然な"死に際"(deathbed)」を迎えることとなってしまった。このような推移を経て、尊厳死は、患者が、自己の、”人間としての
尊厳”を全うする目的で「延命治療を中止あるいは差し控えを行う」という概念として捉えられている(10)

尊厳死は、一般に、「医学技術の高度な発展が齎す過剰治療からの解放」を意味するといえる。即ち、患者が”スパゲッティー状態”
と化してしまう苛酷な延命治療を行うことを中止し、”人間としての尊厳性”を維持した状態で自己の生命を全うさせる権利を容認する
べきであるとするのが、いわゆる尊厳死を肯定する立場として捉えられる。

通常、尊厳死を認める理由としては、現代における医学技術の発展が齎した端的な「延命至上主義」への諸々の反省・批判を挙げる
ことができよう。古代ギリシアの"医学の父"、ヒポクラテス(Hippocrates, 460?-?377 B.C.)の時代から受け継がれていた「患者が生き
ている限り最後まで治療を施す」という『ヒポクラテスの誓い』に秘められている”伝統的医倫理”は、長い間、医師の、”古き良き職業
倫理”として世界中の医師たちの「心の支え」「良心の源」となってきたことは周知の事実である。しかし乍ら、高度に発達した延命
治療の技術は、患者に対して極めて苛酷な苦痛を齎し、人間としての”価値”や”尊厳”までも喪失させてしまうという不幸を招く結果と
なってしまったのだ。

一方、現代における医療技術の高度な発展は、疼痛緩和治療の発展を遂げており、これに伴って安楽死が問われるという局面は
減少しているという事実にも留意すべきである。そして、実に皮肉な現象ではあるが、医療技術が発展すればするほどに、尊厳死の
問題は増加する傾向にあるのである。このような医療現場の現実を鑑みると、概念上、安楽死と尊厳死を区別する必要があることが
明確になってくる。

「尊厳死」(death with dignity)は、行われるその"目的"に鑑みると、「積極的安楽死」(active euthanasia)」とは異なる目的を持ってい
るということは言うまでもない。それに加えて、我々は、「尊厳死」と「消極的安楽死」(passive euthanasia)との比較においても、双方
は、微妙ではあるが、それぞれ異なる目的を持っているということに留意するべきだ(11)。具体的な理由としては、消極的安楽死と
尊厳死は双方とも"不作為"であるとしても、消極的安楽死は「自然死としての死期を早める」ということを目的としているが、尊厳死は
「自然死としての死期を"過度に引き伸ばす"という措置を止める」ということを目的としているからである。

すべての尊厳ある人間は、「ごく自然な状態で死を迎えることが望ましい」という観点に立脚した場合、自然死を不当に早めることを目
的としている安楽死は容認され難いが、「自然死を”過度に引き伸ばす”」ということの拒否である尊厳死は容認されるべきであるとい
う見解がある。学説では、消極的安楽死の概念に尊厳死を含めるのが通説であるが、尊厳死という概念が登場し始めた医療現場に
おける"歴史性"を鑑みると、今後は、これらを区別して考察する必要性も出てくると考えられる(12)。 

昭和58年(1983年)10月、「日本安楽死協会」は、「日本尊厳死協会」へとその名称を変更した。その主な理由は、日本安楽死
協会は、不治且つ末期状態の患者及び植物状態の患者に対する過剰な延命措置の継続に対し、各人の自発的な意志によって、
このような医療を拒否する運動を行ってきたが、改めて、会の考え方が、「”人間の尊厳”を守る人権の主張であること」を強調し、
安楽死協会の名称が積極的安楽死(慈悲殺)を推進する団体であるかの如き誤解を解消するために変更するに至ったということだ。
同会の名称変更がなされた背景には、積極的安楽死についての世論の警戒心に対する配慮があったわけであるが、実際は、
「安楽死法制化を阻止する会」(昭和53年11月発足)の声明に対する配慮でもあった。この声明は、安楽死法制化への動きは、明ら
かに、医療現場や治療や看護の意欲を阻害し、患者やその家族の闘病の気力を失わせるばかりか、生命を絶対的に尊重しようとす
る人々の思いを減退させているというものであった(13)。このような諸団体の理念の対立は、患者の「死ぬ権利」を考える際に、非常に
議論を活発化させる役割を演じると共に、現在の安楽死・尊厳死問題を検討する上での主要な論点を導き出すことになった。この
問題について、考え得る論点を大まかに大別すると、以下の如き3つの論点に絞ることができる(14)

  a. 安楽死・尊厳死の肯定は、人間の尊厳を守る人権の主張なのか、それとも、それに反する主張なのか。

  b. 安楽死・尊厳死の肯定は、逝く人のためなのか、それとも生き残る周囲のためのものなのか。

  c. 日本において、安楽死(尊厳死)を法制化することは望ましいか・否か。

これらの3つの論点の中で、最も根本的な問題はaである。即ち、安楽死・尊厳死の肯定は、「人間の尊厳」を守る、つまり、「人間の
尊厳を有する個々の人間の人権を擁護しようとするための肯定なのか」という問題である。個々の人間が「如何によく生きるべきか」
という問題は、人生最後の選択としての「如何によく死ぬべきか」という問題でもある(15)。既に触れたように、人間の生命(人命)を尊
重するということは人類共通の理念である。だからこそ、我々は、そうした人間としての基本理念を見据え、その生命を、「尊厳ある
生命」(life with dignity)として死に至らせたいと望む末期状態患者の権利について検討することが必要となってくる。そして、これは、
まさに、「"尊厳ある人間"としての死ぬ権利」(right to die as a "human being with dignity")についての検討そのものとなるのだ。

注)
 (1) "Dutch Upper House Backs Aided Suicide", The New York Times, (April 11, 2001), "Netherlands Legalizes Euthanasia",
、、、、,The Chicago Tribune, (April 11, 2001).

 (2) 横浜地裁平成7年3月28日判決(判時1530号28頁)。

 (3) Cruzan v. Director, Missouri Dept. of Health, 497 U.S. 261, 110 S. Ct. 2841 (1990).

 (4) 最高裁昭和23年3月12日大法廷判決(刑事判例集2巻3号192頁)。この判決は、死刑の合憲性が審理された有名なリー
    ディング・ケースであるが、最高裁が「生命は尊貴である。一人の生命は、地球よりも重い」と述べたことは、人間の生命の
    尊厳性を考える時、高く評価されるべき見解ではあるが、その一方で、平然と死刑の合憲性を肯定したのは偽善的言辞に
    類似するのではないかという批判もある。詳細については、菊田幸一『犯罪学』5訂版(成文堂、1998年)250頁以下、木村
    亀二『刑法の基本概念』(有斐閣、1961年)、木村亀二『刑法改正と世界思潮(日本評論社、1965年)226頁、及び、菊田
    幸一『いま、なぜ死刑廃止か』丸善ライブラリー143(丸善、1994年)21頁。

 (5) Hans Nawiasky, Die Grundgedanken des Grundgesetz fur die Bundesrepublic Deutschland, 1950. 邦訳は、樋口陽一・吉田
    善明「解説世界憲法集」第4版(三省堂、2001年)193頁。

 (6) ホセ・ヨンパルト『法の世界と人間』(成文堂、2000年)232頁。 

 (7) 金澤文雄「生命の尊重と自己決定権」『人間の尊厳と現代法理論』ホセ・ヨンパルト教授古稀祝賀(成文堂、2000年)93頁
    では、「生命の尊重」と「人命の尊重」を概念的に区別している。  

 (8) ヨンパルト、前掲書231頁、及び、金沢、前掲論文93頁以下。

 (9) 麻酔とは、薬物の作用によって、神経機能が可逆的に障害され、意識喪失や無痛、不動、刺激に対する反応の欠如等が
    発生している状態である。薬物を全身に作用させて中枢神経系全体、即ち、身体全体に麻酔状態を作るのが全身麻酔であ 
    り、神経系の一部にだけ効かせ身体の一部を麻酔するのは部分麻酔(あるいは局所麻酔)と呼ぶ。医学的効果としての詳細 
    は、Stuart C. Cullen, M.D., Anesthesia in General Practice (3rd Edition), The Year Book Publishers, Inc. (1951).

 (10) 1994年に行われたに日本学術会議の「死と医療特別委員会報告−−尊厳死について−−」において、同委員会は以下 
    の如き見解を示している。即ち、「生命維持装置の導入など、生命維持治療の長足の進歩により、輸血、高カロリー輸液、
    心臓マッサージ、人口呼吸などの延命措置が発達し、従来は不可能であった患者の治療が可能になってきたが、それに伴 
    い、末期状態にある患者の延命も可能になり、ガンなどの激痛に苦しむ末期状態の患者や回復の見込みがなく死期が迫せ
    まっている植物状態の患者に対しても、延命治療を施している場合が多い。尊厳死は、こうした助かる見込みがない患者に
    延命治療を実施することを止め、人間としての尊厳を保ちつつ死を迎えさせることをいうものと解されている。」

 (11) 「積極的安楽死」は、患者の本人の嘱託または承諾に基づいて、死を齎す意図をもって"作為的に"患者の生命の短縮・断絶
    を行うものである。実際は、致死量の薬物を注射して死に至らしめる行為がこれに該当するものである。また、「消極的安楽  
    死」は、患者に対して生 命維持のために必要な基本的処置を敢えて行わないことをいい、無論、医師は、その措置がなされ
    なければ患者の生命が短縮・断絶され死期が早まることを認識している。具体的には、自力で必要な栄養を摂取することが
    不可能である植物状態患者に対して、敢えて水分や栄養を与えないで死に至らしめる行為である。

 (12) 葛生英二郎・河見誠『新版 いのちの法と倫理』(法律文化社、2000年)174頁。

 (13) 中村雄二郎「生と死のレッスン」(青土社、1999年)188頁。

 (14) 中村、前掲書189頁。

 (15) Sue Woodman, Last Rights; The Strubble Over the Right to Die, Perseus Publishing (Cambridge, 2000). 



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