「哲学する」という行為に内在する本質
2013年8月4日(日)
「哲学とは何か」、この問題は、決して哲学者のみが考えるべき問題ではない。ここで本質論を述べるならば、そもそも哲学という学問は、哲学者自身のために存在しているのではなく、「“一般的”人間そのもの」のために存在している学問である。
哲学者が“哲学する所以”は、言うまでもなく「真理」を探究するためである。では、真理とは一体いかなるものを指すのであろうか。真理とは、いかなる時代・社会においても普遍的に存在し続ける「完全無欠な存在物」である。だが、今、我々人間がこの「真理」について哲学するとき、「本当にそのような“完全無欠な存在物”というものが存在するのであろうか」という“疑問”が生じる。この「完全無欠な存在物」について捉えるとき、以下のような論理(Logic A)が成り立つ。即ち、
--Logic A--
(1)「人間は『不完全な存在者(物)』である。」 → (2)「不完全な存在者(物)が『完全な存在者(物)』を知ることは“不可能”である。」 → (3)「“不可能”という概念は、本来いかなる場合においても“不可能”であるわけだから、不可能を可能として認識・理解することは“不可能”である。」
そもそも、「(巷で耳にする)不可能を可能にする“可能性”」とは、本来、始めからそこに可能性が内在している場合において該当する考え方である。言うまでもなく、「不可能」という概念に内在する本質は「『不可能』そのもの」であるわけだから、人間が一般社会で耳にする“不可能を可能にした”という「不可能の”category”(範疇)」には、当初から、そこに「不可能を可能にするための“(ある種の)可能性”」が内在していたと判断できる。
今ここで、この論理の流れで「真理」について捉えると、不完全な存在者である人間が「完全無欠な(永久不変な)存在者」を知ることは“不可能”であるという論理が成り立つ。そして、本来において、人間が、「完全無欠な存在としての『真理』」を認識・理解することは不可能な行為であると判断することができる。
人間は、「哲学は、“真理探究”を目的とする学問である」という大前提の下で思索するとき、前述の如く、そもそも人間が真理を認識・理解することは不可能であるから、「人間が哲学を研究する行為には何らの“具体的”利益もない」とも捉えることができる。だが、そう捉えることは“理性的存在者”としては賢明ではないと言わざるを得ない。
不完全な存在者である人間が「完全無欠、且つ、絶対的な真理」を知ることは不可能ではある。しかしその反面、人間は、哲学の研究を介して、少なくとも「真理を探究する“道のり”」を歩むことは可能となる。「真理を探究する“道のり”を歩む」、まさに、これこそが「哲学を研究する上で、『最も重要となる行為そのもの』」といえるのだ。
私は、長年、「“諸学問”(sciences)の基礎としての『哲学』」を研究してきた。しかし、未だに、「完全無欠な『知』、または、『真理』」への到達には至っていない。では、今後の研究においてはどうであろうか。
思うに、私自身、今後の研究において“真理それ自体”に到達することは不可能であろう。しかし、それでも私は、「真理を探究するための道のり」を歩んでいきたいと切望している。
私は、今後も、自分から率先して「真っ暗闇の“暗黒の世界”」に自分の身を置き、そこで“手探り状態”で前に進み、あるいは、後ろに戻り、もがき苦しみながら「『知』の光」、「『真理』の光」を“探求”する(探し求める)日々を送り続けていく。なぜならば、そうした行為そのものが、まさに、「哲学する」という行為であるからだ。
以上で述べた考え方から導き出せることは、哲学に“関係”する上で最も重要な点とは、「哲学の知識を得る」という行為にとどまることなく、「自分自身が哲学する」という行為であるということだ。
富山県氷見商工会議所での講演
2013年6月23日(日)
日本だけでなく、世界中には、実に様々な個性・持ち味を備えた人間が存在します。言語・文化・習慣等の異なる外国はもとより、たとえ日本国内であっても、毎日、様々な個性や考え方を備えた人々との出会いというものがあります。
他者とのコミュニケーションがどうして興味深いのかというと、それは、人はそれぞれ自分とは異なる存在者であるからでしょう。「人は皆、迎える一日一日において『自分とは違った24時間』を過ごしている」、・・・だからこそ、そうした「違った24時間」を過ごしている他者とコミュニケーションを図ることに意味があるのだと考えます。
先日の2013年6月18日(火)、富山県氷見市の氷見商工会議所にて講演を行ってきました。氷見市では、実に、個性溢れるたくさんの方々とコミュニケーションを図り、現地にて、新鮮なエネルギーを吸収することができました。
■講演の概要
20136023speech.pdf
”明日はない”と自分に銘じて、今日を生きる
2013年5月19日(日)
私は毎晩、ベッドに入ると、必ず自分に問いかけることがあります。その問い掛けとは、「明日の朝も目を覚ますことができるであろうか?」ということです。
「明日を迎えることができる」ということは、天文学的見地から述べるならば、「奇跡」そのもの。人間の一生そのものが、この宇宙空間にやっとの思いで存在し続けている”小さなゴミ”、いや、小さなゴミどころか、”ほんの埃”ほどの存在でしかありません。
所謂、文明社会に生きる私たち人間は、通常、「自分たちの存在は、ほんの埃のような存在である」という捉え方を素直に認めようとはしません。その理由としては、(1)「”毒された文明社会”が、個々の人間に対して、”本質を捉えようとする意識”を希薄にしてしまっているということ」、そして、(2)「一人ひとりの人間において、この事実を受け入れ、ほんの埃のような存在者として、頗る前向きな姿勢で、”勇気を持って勇敢に、毎日の一秒一秒を刻んでいく”ということがなかなかできない」ということが挙げられます。
読者の皆さん、本日の今現在から、「明日はない」と自分に言い聞かせて、今日の一秒一秒を刻んでみてください。明日があると考える人は、今日できることを明日に引き延ばそうとします。しかし、実際、今日できることを明日にやろうとする人は、明日には、また再び、「明日にやればいい」と考えます。
「自分は、”埃”ほどの些細な存在である」、そして、「明日という日はない」と自分に銘じることで、今日も”明日”も変わります。人間の人生というものは、結局のところ、このような思考方法ができるかどうかで大きく変わります。
追記:
早起きが、大変気持ちいい季節となりました。朝は、太陽の光を浴びながら、「人間存在の根本の根本」を哲学する日々を送っています。
2012年度教養講座、「哲学」(総論・各論)の計14回の講義が終了しました。
2013年4月7日(日)
昨日の2013年4月6日(土)、生井利幸事務所社会貢献事業、2012年度・教養講座 「哲学」(総論・各論)のすべての講義、及び、関係活動が終了しました。
通年講義として、銀座書斎にて昨年以来続けてきた計14回の哲学の講義、及び、諸々の関係の活動は、昨日ですべて終了。今まさに、感無量という気持ちでいっぱいです。
計14回の講義を終了するにあたり、教養講座を受講してきた受講生の皆さんから記念樹(パキラ・アクアチカ)をいただきました。現在、記念樹は、銀座書斎の精神のシンボルである「アテナイの学堂」(ラファエロ・サンティ作)の面前に飾る予定で準備を進めています。
受講生の皆さんは、「真理探究」という問題意識の下、極めて厳格な学びの姿勢を堅持し、14回の講義にて、一つひとつ丁寧に学んできました。
教養講座「哲学」(総論・各論)が第13回目を迎えました。
2013年2月11日(月)
去る2013年2月3日(日)、銀座書斎にて、2012年度教養講座「哲学」(総論・各論)が第13回目を迎えました。昨年から”アカデミック・イヤー”として勉強を続けてきた受講生の皆さんは、この日の講義も、実に熱心に学んでいました。
以下において、受講生が作成した講義ノートをご紹介します(PDF)。
20130203philosophyta.pdf
the quintessence of dignity
2013年1月19日(土)
"dignity"、即ち、「尊厳」についての見識を高めるには、形而上学(metaphysics)を研究することに加え、実際の現実社会において多くの辛苦・困難を重ねていくことが重要であると考えます。
人間は、自分自身の「生」における実体験を通して、「理論」(theory)と「実際」(practice)の融合を具現させたそのとき、「尊厳の真髄」について理解を深めることができるのだと私は捉えます。
本日は、"the quintessence of dignity"(尊厳の本質)について英語で講義を行います。
■英語音声講義
the quintessence of dignity
人類史上最高峰の古典 『聖書』について
2013年1月11日(金)
昨日の銀座書斎日記では、英語で、「『聖書の精神』と『人間の本性』」について講義を行いました。本日は、昨日の続編として、さらに、英語で講義を進めていきます。
本日の英語講義のテーマは、「人類史上最高峰の古典としての聖書」です。一般に、聖書は、「内容についての理解が難しい」、「どのページから、どのように読んでいけばよいのかわからない」と捉えてしまうことが多いでしょう。
無論、最初から最後まで、たっぷりと時間をかけて丁寧に読み進めていくことは大切です。しかし、この講義では、そうした通常の固定観念から離れて、<無理をすることなく、楽しみながら読んでいくためのヒント>を講じることに的を絞りました。
人類史の歴史においてまさに「最高峰の古典である『聖書』」、今回の講義では、わかりやすい切り口で聖書について講じています。
■英語音声講義
人類史上最高峰の古典 『聖書』について
「聖書の精神」と「人間の本性」
2013年1月10日(木)
西洋文明社会では、実に、”記憶の及ばない時代”(from tme immemorial)、即ち、太古から、「人間の本性」(nature of human being)、そして、人間の生きるべき道について、実に「厳格、且つ、深遠なる探究・考察」が行われてきました。
このたびは、「西洋史という枠組みで捉える『人間の本性』」という観点から、英語で、「『聖書の精神』と『人間の本性』」について講義したいと思います。
■英語音声講義
「聖書の精神」と「人間の本性」
さらに自分を極限まで追い込んでいくための2013年
2013年1月3日(木)
かつて、古代ギリシアにおいて、「学問をするにはスコレーが(暇)が必要である」という考え方がありました。これは、当時のギリシアにおいて、所謂、「学問をするにはそれ相応の自由な時間が必要である」という意味として捉えられたものです。例えば、アリストテレスは、著書『形而上学』にて、「人々が閑暇(スコレー)を持った土地にて、はじめて快楽のためでも必需のためでもない学問が発見されたのだ」という旨を述べています(スコレーは、中世には”スコラ”と呼ばれ、後に、”スクール”と呼ばれるようになった語)。
現代社会においては、「暇は人間を堕落させるもの」という捉え方が一般的です。私自身も、「暇は、自分を堕落させる」と考え、毎日、一分一秒でさえ、時間を無駄にすることなく、超過密スケジュールをこなしています。
私は、人間の人生には、大きく分けて3つの財産があると考えています。財産と言っても、それは不動産や現金を指すわけではありません。私にとっての3つの財産とは、(1)「命」、(2)「健康」、(3)「時間」を指します。
概して、「命」と「健康」は、その概念を混同されがちですが、世の中には、命があっても健康がない人が大勢います。わかりやすい具体例で述べるならば、病院には入院患者がたくさんいますが、それぞれの患者には命がありますが、体の状態が健康というわけではありません。
つまり、人間が、自由意思で、健康な状態で自分の「生」を謳歌するには、「命」と「健康」を備えているという大前提の下、生を謳歌、あるいは、全うするための十分な「時間」が必要であるという捉え方ができるわけです。私自身、今現在において確かに生きていますが、では、”優良な健康”を持ち得ているかと考えると、実際はそうではありません。私は、残念ながら完全なる健康体ではありませんが、それでも、とにかく、一個の人間として「生きる」を続けています。
巷では、人と会う約束をして、その当日、例えば、約束の時間まで一時間程度の時間が余ると、「カフェでも行って時間を潰そう!」という言葉を発する人がいます。人間の生には限りがあるわけですが、「限りある生の時間を潰す」という時間の捉え方に洗練されたセンスを感じることはできません。時間は、本来、潰すためにあるのではなく、(理性的存在者として)上手に使うためにあるものです。
このような観点から、私にとっての2013年は、既に決まっている過密スケジュールから「さらに新しい時間を生み出す一年」にしたいと考えています。「時間は、探すものではなく、作り出すもの」、・・・今年も、引き続き、このような時間の捉え方の下で、毎日、一秒一秒を刻んでいきます。
2012年12月31日は、ルートヴィヒ・ファン・べートーヴェンのすべての交響曲
の演奏会に出席。最高峰の演奏を鑑賞し、新鮮なエネルギーを吸収すること
ができました。
2013年を迎え、自宅にて、美味しいシャンパンを味わいながら
新年会を行いました。
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