教養講座・「哲学(総論・各論)」開講のご報告
昨日、生井利幸事務所・社会貢献事業、2012年度教養講座 「哲学(総論・各論)」の第一回目の講義が始まりました。教養講座で学
ぶ受講生の皆さんは、事前の審査(小論文試験・面接試験)を通過した優秀な方々。講義は連続講義(大学学部程度の講義)で、アカ
デミック・イヤー(通年制)です。
わたくしは、様々な組織体から招聘を受け講演を行いますが、講演会における聴講者は通常、数百人。「数百人の前で講演を行う」と
いう活動は、”社会貢献性”を鑑みるとそれなりの意味を成しますが、そもそも、講演は、一カ所で一度だけ行うもの。昨日に始まった教
養講座は通年制の連続講義ですので、この講義では、たっぷりと時間をかけて、相当深い内容まで教授することができます。
昨日からスタートした講義・「哲学(総論・各論)」について、早速、受講したある方からご連絡をいただき、第一回目の講義の内容を整
理したノートを見せていただきました。ノートの内容がかなり整理された内容でしたので、ご本人と相談の上、このたび、この公式サイト
上でノートの一部をご紹介させていただくこととなりました。以下において、PDFファイルでノートをご紹介します。
2012年6月25日(月)
次は自分の番
「次は自分の番」、・・・・・私にとっての自分の番とは、「自分が死を迎える番」を指します。私は現在40代ですが、私の頭の中では、
20歳当時の思い出は“つい昨日のよう”です。広大な宇宙の時間に比べると、この地球における時間的空間はほんの些細なもので
す。その長さを天文学的に述べるならば、その長さは、まさに、“ほんの些細な一瞬”でしかありません。
この地球が歩んできた“些細な時間的空間”において、人類が独自の進化に入ったのは今から約800万年から500万年前(実年代は
推定。研究者によって見解が異なる)。現在における人類学・考古学等における研究では、最古の人類は「猿人」、即ち、エチオピアで
発見されたラミダス猿人(Australopithecus ramidus)。後に発見されたアウストラロピテクス=アファレンシス(Australopithecus
aphalensis)もエチオピアで発見されました。その後、更新世(約170万年〜1万年前)に入るころに「原人」、ホモ=エレクトス(Homo
erectus)がアフリカに出現(原人の脳の容積は猿人の2倍(1000ccほどの容積))。やがて、原人は「旧人」、ホモ=サピエンス=ネアン
デルターレンシス(Homo sapiens neanderthalensis、通称、ネアンデルタール人と呼ばれる)へと進化。ネアンデルタール人は、12万年
前から3万5000年前にヨーロッパから中央アジアに至るまで広域にわたって存在しました(脳の容積は1300〜1600ccほどで、現
代の人類と同等レヴェル)。
そしてようやく、約6万から5万年前に人類最初の「新人」(新生人類)、いわゆるホモ=サピエンス=サピエンス(Homo sapiens sapiens)
が出現します。この時点で、新人の骨格や顔の形は、現代の人間とほぼ同等のものとなりました。新人における石器の技術は著しく進
化し、人類は、後期旧石器時代に突入。やがて集落(人間社会の起源)が生まれ、少しずつ、世界の至る所に文明が開化していった
のです。
今、2012年の現代社会に生きる私たちにとって、このような立ち位置から人類の歴史を静観すると、「数十年の命を賦与された“一個
の人間が息をする時間”」は、まさに、“ほんの一瞬”のことであることがわかります。このようなことを毎日考えている私にとって、「人間
の生」を哲学することは、言うなれば、毎日の日課であり、「ものを書く」という観点から述べるならば、このような問題意識の中で生きる
ことは毎日の仕事でもあります。
「次は自分の番」、・・・・・実際、毎年のように、近い親戚、知人、友人等に死が訪れています。無論、私たち人間にとって「健康である
こと」は最も感謝するべき有様。健康であることは決して当たり前ではない、このことは、健康であった自分自身が病気になるとしみじ
みと感じることです。「次は自分の番」、・・・・・だからこそ、今、私にとって一番怖いものは、「何もしない時間を過ごすこと」です。今ここ
で率直に述べるならば、私自身、「何もしないで時間ばかりがどんどんと経過していく」という有様ほど”恐怖”を感じるものは他にはあり
ません。
どのような人間でも、一生に何回かは何らかの病気になります。そして、言うまでもなく、年齢を重ねると、やがて死を迎えます。究極論
を述べるならば、「死を迎える」という有様は、間違いなく、世界中のどのような人間においても同じ有様です。無論、人によって「生の期
間」はそれぞれ違いますが、人は、その期間に限らず、「自分における“限定された生”において、本当にやりたいことをやっているの
か」と自分自身に問うその時、“切実なる実感”として、「自分に与えられた生を全うすることの”意味”・”重要性”」を感じ取るのだと思い
ます。
読者の皆さん、現在、皆さんが何歳であったとしても、是非、日々の生活において、「次は自分の番」と自分に唱えてみてください。「次
は自分の番」、・・・・・そう考えると、今現在、「何もしない」「時間を無駄にする」という有様に対して大きな恐怖心を抱くに違いありませ
ん。「時間を無駄にする」、言うなれば、それは、「限りある自分の人生の時間を無駄にする」ということです。
2012年4月22日(日)
ひしひしと「活字の威力」について考える今
先日の3月31日(土)、新国立劇場中劇場にて、ウィリアム・シェークスピア原作、「ロミオとジュリエット」全2幕を、東京シティー・バレエ
団のバレエ、そして、東京シティー・フィルハーモニック管弦楽団の演奏で鑑賞してきました。今回は、洗練されたオーケストラの演奏と
バレエの華麗な演技の調和を満喫し、心にたくさんのエネルギーを注入することができました。
私は、自身の作品の創作との関わりから、毎日、できるだけ多くの芸術作品に触れるようにしていますが、クラッシック音楽のコンサー
トや美術館での絵画の鑑賞も、可能な限り時間を捻出し、”実際の本物”を鑑賞するようにしています。
深い意味で述べるならば、芸術とは、「人間存在に存する”本質”」の探求です。無論、芸術作品の多くは人間をテーマとしていますが、
一方、人間自体をテーマとしていない作品であっても、究極的には、人間存在に関わる本質を追及し、それを独自(唯一無二)の表現
方法で表現しているわけです。私自身は、「活字」で表現する立場の者。「活字」は、一見すると簡素な表現方法であるように感じられ
ますが、実際のところ、活字には、”もの凄いパワー”が潜んでいます。
2012年も春を迎え、今、桜の季節となりました。私は今現在、銀座書斎にて実に清々しい気分で春の朝を楽しんでいます。そうした
中、日本の活字文化に”新しい命”を吹き込むべく、今ここで改めて、この、「活字の威力」について厳粛に受け止め、神と学問の面前に
おいて謙虚な姿勢で一秒一秒を刻んでいきたいと心に誓っています。
2012年4月2日(月)
"Necessity knows no law."
記述は、PDFファイルとなっております。以下をクリックしてお読みください。
■PDFファイル(記述)
■講義(音声)
2012年2月11日(土)
「狭き門」から入る意味
新約聖書のマタイによる福音書7の13,14において、「”狭き門”から入る意味」について述べられています。西洋文明社会では、「広
い門ではなく、あえて”狭い門”を選ぶ」という考え方は、人々において広く知られた考え方です。
読者の皆さん、是非、静寂の雰囲気の中で、心を落ち着かせて以下の言葉を精読してみてください。静かに、そして、厳粛な心のス
テージを基盤として言葉を精読しながら「自分の生き方」を問うことにより、自分の「生」を全うする上で極めて重要な気づきと出会うこと
ができるでしょう。
「狭い門」 (The Narrow Gate)
-13-
狭い門から入りなさい。滅びに通じる門は広く、その道も広々として、そこから入る者が多い。
Go in through the narrow gate, because the gate to hell is wide and the road that leads to it is easy, and there are many
who travel it.
-14-
しかし、命に通じる門はなんと狭く、その道も細いことか。それを見いだす者は少ない。
But the gate to life is narrow and the way that leads to it is hard, and there are few people who find it.
(新約聖書、マタイによる福音書7の13,14を引用)
■このテーマに関してわたくしが銀座書斎で講じた講義の一部
2012年1月20日(金)
恥をかかなければ前に進めない
2011年12月31日(土)は、ベートーヴェンの全交響曲演奏会 2011、小林研一郎先生指揮、岩城宏一メモリアル・オーケストラ演奏
を鑑賞。東京文化会館にて、午後1時から年明け直前までの長時間にわたって交響曲第1番から交響曲第9番までのすべてを鑑賞し
てきました。
私はこれまで、長年にわたってベートーヴェンの精神・哲学に触れてきましたが、この日は、交響曲第1番の演奏が始まると間もなく、
ベートーヴェンの哲学が2007年以来続いている背中の痛みにじわりじわりと入り込み、演奏会スタート時点から、私の背中が硬くな
り、まさに”鉄板状態”となってしまいました。かつて、2007年において突如私を襲った背中の痛みに関しては、この銀座書斎日記に
おける一番最初のエッセー、即ち、2009年5月29日に執筆した「”試練”と闘ってきたこの2年間」において詳しく述べましたが、実の
ところ、この背中の痛みは現在も続いています。
背中の痛み、・・・・・この痛さは、普通の痛さではありませんが、率直に述べるならば、私は、この痛みは、私に「生きる道」を教えてく
れる”先生”であると捉えています。実際、”痛い”という有様は大変辛いものです。しかし、”痛み”は、人間に、大切な気づきを与えてく
れるということも事実です。では、一個人としての私はこの痛みから何を学ぶか、それはすべて、私自身における「生」に対する意識・捉
え方如何で大きく変わっていくに違いありません。
2012年1月2日(月)、新年を迎えた今、私は、”一からやり直す”というよりは、まさに、「ゼロから再出発」という決意をしております。
私は、今、自分におけるすべての「属性」(attribution)を洗い直し、自分自身の血・肉・骨に新しいエネルギーを注入するべく、迎える一
日一日における一秒一秒を魂で刻んでいきます。
深い意味で言うならば、人間は、自分独自の”色”を出して前に進めば、多かれ少なかれ恥をかきます。私は、これまでの人生におい
て、日本でも海外でも相当数の恥をかいてきましたが、2012年も勇気を振り絞って、さらにたくさんの恥をかいていく覚悟を決めていま
す。「恥をかかなければ前に進めない」、・・・・・だからこそ、私は、”率先して”恥をかいていきます。
2012年1月2日(月)
生き抜く宿命
2011年も、いよいよ終焉を迎えようとしています。今年も、この銀座書斎にて、様々なドラマが展開されました。
銀座書斎は、本来、作家である私自身が思索と執筆を行う場所として開設しましたが、それと同時に、この空間は、社会貢献活動の一
環として、学問・文化・芸術を総合的に捉え、一般の人々における「人間の尊厳」の追求と実現を目的として様々な啓蒙活動を行う場所
でもあります。私は、常に、この銀座書斎において、”公平無私な学問の精神”の下、「”本質”を丁寧に伝えていく」ということを主眼とし
て活動を行っています。
人々に対して啓蒙活動を行う上で、私自身、常に考えさせられることは、どのような人にとっても、本来、「生きる」ということは決して簡
単ではないということです。「生きることは簡単ではない」、・・・・・率直に述べるならば、このことは、私自身においても全く同様に言える
ことです。事実、私自身、迎える一日一日において、「簡単に生きれた」という日は一日たりともありません。生きることは難しい。だから
こそ、「生きる意味」がそこにあるわけです。
本日は、2011年の幕を閉じる今、読者の皆さんに対して次の哲学詩を捧げたいと思います。
生き抜く宿命
生井利幸
人は、困難に直面すると、
生きることの意味について考えるようになる
人は一体どうして悩み、
苦しみながら生きなければならないのか、と
そう考えるときは、生きることに疲れ果てて、生きることに疑問を感じたとき
生まれた、という結果を出発点とするすべての人間は、
この世に生を受けた後に、自分の意志で生きる宿命を背負うことになる
どんな人でも、長く生きていると、時には困難に直面する
自分の力で、目の前の現実や困難と闘おうとするそのとき、
人は、この世に生まれたことの意味について考えるようになる
今、私は改めて思う
人は、単に生きるだけでなく、
”生き抜く宿命”を背負っている、と
この、”生き抜く宿命”について心の中に深く刻んだ人が発揮する力、
この力こそが、轟音をとどろかせて迫ってくる強風にも決して屈しない”底力”となっていくのだ
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2011年12月30日(金)
外で食事をすると、切実なる想いで、「生の尊さ」を実感できる
もうすっかり、オーバーコートが必要な季節となりました。私は、ニューヨークでは一人歩きが好きなのですが、この感覚は東京でも同じ
です。日々の生活において、空き時間があるとき、自分一人で周辺地域を闊歩することに躊躇することはありません。
寒さの厳しい季節に一人で外を歩くことは、「深い思索の源泉」としての役割を演じてくれます。冷たい空気は、程よく頭を冷やしてくれ
ますが、これは直接、「理性的思索」を試みるための絶好の機会となります。
私はこの季節でも、自宅バルコニーにおいて食事をします。無論、周辺のマンションにおいて、寒い中、そのような光景を見ることはまず
ありません。大抵の人は、この文章を読み、「寒いのになぜ外で食事をするのだろう?」と感じることでしょう。
私自身、実際のところ、外で食事をするとき、「寒くて食べられない」という気持ちになることはまずありません。大抵の場合、雨、あるい
は、雪でも降らない限り、外の新鮮な空気を吸収しながら時を刻むと、実に快適な時間を過ごすことができ、”食べる”という行為、そし
て、”飲む”という行為において「切実なる幸福感」を感じます。
外気に触れて食事をすると、「自分は、この地球上で、”一個の存在者”としてものを食べている」という”真実”を実感することができま
す。人間は、そうした”真実”の面前において「”一個の存在者”として呼吸をする尊さ」を自分の肌で感じたとき、「広大な宇宙に存する
一個の”個”」として、まさに、「”個”としての生の尊さ」を切実に感じるのだと思います。
2011年11月22日(火)
自然との対話
日曜日の本日も、朝の4時40分に起床。まず始めにゆっくりと朝食を食べ、5時には自宅の屋上に上がり、広大な空を満喫しました。
2011年も、もう既に9月18日(日)。この時期でも、朝の5時過ぎには青空(朝日の光が作り出す”純粋無垢な青空”)を見ることがで
きます。
朝一番で、純粋無垢な青空、そして、雲の動き・流れを見ていると、「自分は一体何者であるか」という人間存在における根本問題につ
いて、”思い違い”・”勘違い”することを回避することができます。
「自分は何者であるか」について思い違い・勘違いをしないためには、迎える一日一日において「人間存在」について深い思索をするこ
とが求められます。その際、以下に掲げる3つの根本問題について思索することが重要となります。
1) 「自分は、一体どこからやって来たのであろうか。」
2) 「自分は、今現在、宇宙空間におけるどこに存在しているのか。」
3) 「自分は、”一個の生”を全うした後、一体どこに行くのであろうか。」
「人間存在」について思索するとき、何よりも基本となる根本問題は、常に、前述した3つの問題です。これらの問題は、日本に住んで
いようとも、海外に住んでいようとも、常に、同じように重要な問題であるということは言うまでもありません。
これらの問題は、時代を超越し、世界のありとあらゆる文明・文化を超越して共通する最も根本的な問題。読者の皆さんにご提案したい
ことは、「文明社会に存する雑多なネオン・雑音に心を奪われることなく、この地球に存する一個の存在者として、自分を”丸裸”にして、
自分自身を哲学していただきたい」ということです。
これら3つの問題について深い思索を試みると、その次のステージとして、その思索の経験を基盤として、「自分は、この地球に存する
一個の存在者としてどのように生きるべきなのか」という自らの人生を生きる上で最も重要な問題について、極めて厳格に、そして、
最も地に足の着いた方法で哲学することが可能となります。
まずは、心の中を丸裸の状態にして「自然」(緑)と向き合ってみてください。静寂の中で「自然」と向き合うと、必ず、何かが見えてきま
す。
自宅では、森の中で、「自然との対話」を楽しんでいます。自然との対話は、世界のどのような古典を読むよりも、
人間の「生」と「死」を哲学する上で”極めて価値ある時間”となります。
2011年9月20日(火)
ベートーヴェンの交響曲が鳴り響く銀座書斎
生井利幸事務所では、現在、社会貢献活動の一環として、一般の皆様方を対象として、ベートーヴェン交響曲の鑑賞をプレゼントしてお
ります。鑑賞会は、当・生井利幸事務所・銀座書斎で行われ、ベートーヴェンの1〜9の交響曲のうち、お好きな交響曲1曲を鑑賞する
ことができます。
鑑賞をご希望の方は、事前にメールで申込みが必要です。すべての鑑賞会は、完全アポイントメント制となってります。なお、鑑賞会は
すべて無料で参加でき、鑑賞は、土曜の午後、または、日曜の午前に実施されます。
また、このたび、当・生井利幸公式サイトにて、ベートーヴェンをテーマとする新コンテンツをスタートします。新記述は、エッセー形式と
し、読者の皆さんにおいては、文章を読み進めながら、少しずつベートーヴェンの生き方と音楽について理解を深め、”人類”という大き
な枠組みの中で、世界史における歴史的潮流を見据えながら、(1)「ベートーヴェンの哲学」と(2)「西洋における芸術・文化・学問等」
の相互関係について知ることができます。
当ウェブサイトにおいては、ベートーヴェンに関するすべてのコンテンツは、以下のページにおいてご覧いただけます。
また、現在、生井利幸は、「ベートーヴェンの”音楽哲学”」を述べた単行本を出版する予定で、その準備を進めています。その他、別の
テーマによる単行本出版の構想も含めて、少しずつ、読者の皆さんにお伝えしていきたいと思います。
2011年8月30日(火)
大切なポイントを逃さないコツ
今の世の中は、常に度を越えて情報が溢れ、膨大な情報に人間が左右され、時として、私たち人間は、情報の面前で”盲目”の状態と
なっています。
「情報の面前で盲目になる」とは、本来、”道具”としての情報に人間が支配され、「人間そのものが思索を止める」ということです。本稿
をお読みになる読者の皆さんの中には、「自分においては、決してそのようなことはない」と考える人もいるでしょう。無論、このことにつ
いていかに捉えるかは個人によって相当違ってきます。
率直に述べるならば、常に、執筆において「人間における思索の重要性」を唱えている私自身も、しばしば、「私自身、何も考えていな
いときがある」という”事実”に気づくことがあります。日々において何か考えているとき、そうした「何も考えていなかった自分」を振り
返ってみるとき、”無思索”が作り出す「無の時間的空間」(ゼロの時間帯)について”ある種の恐怖感”を感じることがあります。この、
”ある種の恐怖感”とは一体どこから来るのでしょうか。それは、言うまでもなく、私自身における”一個人”としての「時間に対する価値
観」がそのような恐怖感を生じさせるのだと思います。
「時間は、無限に存在し続ける代物ではない」、・・・・・人間は皆、このことを”理屈”として理解することはできますが、確かな実感として
心の奥底でひしひしと感じるには、「限られた時間と体力の中で、全エネルギーを投入して自己の限界(極限)に挑戦する」という
”超・経験”を積み重ねることが必要となります。
本稿のタイトルで表現した「大切なポイントを逃さないコツ」とは、前述した「限られた時間・体力の中で自己の限界に挑戦する」という
”超・経験”を積み重ねながら得ることができるものです。なぜならば、本来における”大切なポイント”とは、「決して”大切なもの”だけで
なく、”大切でないもの”に惑わされ、その結果、その本人が”限りある時間的空間”を生きる存在者であるにもかかわらず、非理性的
に、実に膨大な時間を無駄にしてしまった」という”ネガティブな実体験”を少しずつ重ねながら認識していく代物であるからです。
人間は、失敗を積み重ねながら、少しずつ何かを悟っていく動物です。今ここで、このラインで結論を急ぐならば、大切なポイントを逃さな
いコツを得るための近道とは、一にも二にも、「失敗を重ねていく」ということです。言葉を換えれば、まさに、「苦い経験を重ねていく」と
いうことです。
苦い経験は、人間に「道」を与えてくれます。大切なことは、「今現在、自分が置かれている立場の面前で胡坐をかくことなく、常に、
厳粛な姿勢を忘れることなく、頗る謙虚に生きる」ということです。今現在、存在する環境や条件、あるいは、事物の面前で胡坐をかい
てしまったら、いつの日か必ず、そのほとんどすべてが、自分には決して手の届かない遠くの場所に行ってしまいます。
「”本当に大切なもの”の価値は、それを持っているときにはわからない。その真価についてわかるときは、それを失ってからある程度の
年月が過ぎたときである」、・・・・・このことは、常に真実です。
2011年8月3日(水)
人間存在にとっての”日の出の意味”
本日は日曜日。今朝は4時に起床。まずは、バルコニーで日の出を静観。その後、この銀座書斎へと向かいました。
銀座という街は、実に面白い街。ここでは、「人間の人生における様々な様相」を見ることができます。例えば、朝の4時半でも、様々な
人々を見かけます。ジョギングをしている人、犬と共に散歩している人、飲み屋街での仕事が終わり家に帰る人、ホームレスの人、そし
て、しばしば、酔いつぶれてビルの一角で寝ている人も見かけます。
日の出は、言うまでもなく、一日の始まり。私は、日々の生活において、日の出を見るたびに、「私たち人間にとっての”太陽の光の
意味”」を考えます。
「人間は、一体何のために生きるのか(働くのか)」、・・・・・この問題は、私たち人間にとって極めて根本的な問題ではありますが、
実際、私たちは、日々の生活においてこの根本問題について他人と話し合う機会はほとんどありません。
一般論で言うならば、会社で働く人々にとって、1)「毎月の給料を貰って生活を営むため」、2)「定年まで働いて、老後は年金を貰うた
め」と考えるのは、当たり前と言えば当たり前の考え方でしょう。しかし、人間が”人間”(理性的存在者)として生きる以上、それだけの
見識・捉え方のみで「生」を謳歌することそれ自体を、<極めて理性的な”生”>と捉えることには難しさがあります。
読者の皆さんに、今、ご提案します。是非、一度、早起きをして、自分の目で日の出を見、今再び、「人間にとって、”生きる”という行為
は一体何のためにあるのか」という”人間存在における根本問題”について深い思索を試みてください。人間は、「人間の”生”」を哲学
することによって「”生”の目的」を知り、そうした認識・理解を基盤として、「太陽の光の意味」としっかりと向き合えるようになります。
かつて、ドイツの観念論哲学者、イマニュエル・カント(Immanuel Kant, 1724-1804)は、長年教壇に立ったケーニヒスベルク大学におい
て、学生たちに対して以下のように述べました。
「単に暗記するための思想を学ぶのではなく、”思考すること”を学びなさい」
「哲学を学ぶのではなく、”哲学すること”を学びなさい」
(生井利幸著、「人生に哲学をひとつまみ」(はまの出版)、103頁参照)
西洋・東洋に限らず、21世紀社会を生きる現代人の多くは、「上辺だけの情報」、「”本質不在”の情報」に依存した生活を送り続け、
まさに、”思索不在”の日々を過ごし、その結果、そうした人々においては、カントが述べたこのような言葉に存する意味・価値に対して
無頓着な状態となってしまっています。
読者の皆さん、まず第一に、早起きをして、新鮮な空気を吸い、この地球に存する一個の理性的存在者として、意気揚々と「太陽の光」
と向き合ってみてください。「朝、誰よりも早く太陽の光を見る」というその実体験は、必ず、あなた自身に、「”生”の尊厳」を哲学する上
での絶好の機会を与えてくれます。
自宅バルコニーで浴びる朝の光は、「理性」と「感性」にたくさんのエネルギーを与えてくれます。
2011年7月17日(日)
幸せは、”毎日の日常生活の24時間の中”に存在する
先日、自宅のバルコニーで朝顔が咲きました。その朝顔は、今年、初めて咲いた朝顔。私自身、毎日、丁寧に水をやり、愛情を込めて
その成長を見守ってきたということもあり、今年初めて咲いた朝顔を見たその瞬間、全身で「大きな喜び」を感じ、しばらくの間、その場を
離れることができませんでした。
私たち現代人は、「喜び」「幸せ」「感動」を求め、しばしば旅に出ます。無論、毎日、多忙な日々を送り、朝から晩まで働いている人に
とって、数ヶ月に一度、休暇を取って旅行に出掛けるということは、「心と体をリフレッシュさせる」という意味で必要な活動であるに違い
ないでしょう。
ただ、一つ、忘れてはならないことがあります。それは、本来、「喜び」「幸せ」「感動」というものは、遠く離れた土地(観光地)のみにあ
るのではなく、毎日における現実の日常生活、つまり、「一日一日における24時間の中」で経験することができるということです。
「幸せ」は、常に、自分の目の前にあります。それに気づくか否かは、常に、「自分の心の持ち方次第」。毎日の日常生活を送るそのプ
ロセスにおいて、一つひとつの”小さなこと”を大切にし、清らかな心でたくさんのことを感じながら生きていきたいものです。
2011年7月15日(金)
無駄には二つある
「宇宙の時間」から鑑みるとき、私たち人間の人生の長さは、”頗る短いもの”であることがわかります。「人生は短い。だからこそ、
毎日、一分一秒を大切にし、価値ある時間を過ごしたい」と考えるのは”人間の常”です。
どのような人間においても、いずれは「死」が到来します。今現在、毎日元気に過ごしていても、一時間後に、何らかの事故、あるいは、
自分の体(健康状態)に異変が起きるかもしれません。まさに、人間の「生」は、”一寸先は闇”と言えるものです。
人間の「生」が”一寸先は闇”であるならば、迎える日々において、一日24時間、一分一秒たりとも時間を無駄にしたくないと考えるの
は”自明の理”です。
思うに、無駄には、二つあります。一つは、「一見、無駄と思えても、長い目で見れば”必要な無駄”」。もう一つは、「長い目で見ても、
無駄としか捉えることのできない”不必要な無駄”」。前者は、所謂、「人は経験で学ぶ。人は、良い経験だけでなく、悪い経験からも何
らかの気づきを得る」という考え方。そして、後者は、「人は経験でものを学ぶが、この世の中には”不必要な経験”というものも確かに
存在する」という考え方。
私自身、執筆においても、講演においても、常に、「人間の成長には、多種多様な経験が必要である」というラインで言葉を発していま
す。しかし、一口に経験といっても、世の中には、「必要のない経験」、「どのように解釈しても、無駄としか思えない無駄な経験」という
ものがあります。
人間の一生は、頗る短い代物。必要な無駄は”意味のある無駄”ですが、「無駄な無駄は、”無意味な無駄”でしかない」と私は捉えま
す。
2011年6月17日(金)
自己を実現する存在者は、「"辛苦"を楽しむ理性的存在者」である
・・・「人間の辛苦」についての二つの捉え方を通して
「人生を生きる」ということ、・・・・・それは、この地球上におけるどのような人間においても決して簡単な行為ではないと明言できるでしょ
う。
言うまでもなく、私たち人間は、自らの人生を生きるそのプロセスにおいて、実に様々な経験を通過します。無論、"根本的願望"とし
て、人間には、皆、「楽しい日々を過ごしたい」という願いがあります。また、その一方で、個々の人間における個々の人生において、
それぞれ「苦しい経験」をすることもあります。本稿においては、「"人間存在"の意味について考えていく」という思索活動の一環とし
て、前述した2つの有様のうち、後者の「苦しい経験」、即ち、「辛苦」について述べていきたいと思います。
「辛苦」という言葉、これを文字通り解釈するならば、「辛く苦しい」という意味。どのような人間にとっても、この「辛く苦しい」という経験
は、可能であるならば、自分の人生においては"避けて通りたいもの"であるに違いないでしょう。しかし、現実問題として、私たち人間
は、迎える日々における現実の日常生活において、しばしば、何らかの困難な状況に遭遇し、「辛く苦しい」経験をすることになります。
「辛苦」という経験、・・・・・この経験を、「人生におけるどのような局面において遭遇するのか」ということはまさに個人個人によって異な
りますが、この、"辛苦に直面する理由"について捉えようとするとき、通常、以下の二つの捉え方を見い出すことができます。
第一に、辛苦とは、「人間が何かを成し遂げようとするとき、そのプロセスにおいて必要不可欠の経験である」という捉え方。そして、
第二に、辛苦とは、「自分における悪行・非行に対する”罰”(punishment)である」という捉え方。
第一の捉え方は、世界中の成功者、言葉を換えれば、「"自己実現"(self-realization)を果たした存在者」において最も該当する捉え方
です。本稿冒頭で述べたように、本来、「人生を生きる」ということは、決して簡単ではない行為。迎える一日一日において、そう易々と
事や願望が進まないその時間的空間において、1)「今現在、自分には存在しない能力を将来において存在させる」、2)「今現在、
所有していない何らかの(有形・無形の)事物を所有する」という具体的計画・目標を実現するには、当然ながら、毎日、その本人が、
"心の中で自分自身が刻む一秒一秒における時間的空間"において、それなりの汗と涙を流してその実現のために努力していくことが
必要となります。
第二の捉え方は、罪意識(a feeling of guilt)の深い"理性的存在者"、あるいは、"感性的存在者"にみられる捉え方。ここで本質論を述
べるならば、「不完全な存在者」(imperfect existence)である私たちすべての人間にとって、”人生を生きる”というその過程において、
自分が行うすべての行為について「それらすべてについて完璧に行う」ということは不可能であると明言できます。しかし、常に、
「完璧」(perfection)を求めて自分を極限まで追い込み、究極まで磨き抜き、"生命の長さ"において限りあるその人生において「自分に
とって最も理想とする存在者」であろうとする"理性的存在者"、あるいは、"感性的存在者"は、「自分が犯した”小さな過ち”・”間違
い”」について、その都度、厳しく回顧・反省し、より崇高な生き方を追及・実現しようとします。
私たち人間が、「辛苦」について、第一の捉え方、あるいは、第二の捉え方を選択するかの判断は、まさに、「理性的判断としての
"自由裁量"(discretion)」として行われるべき問題。「人間は、本来、苦を経験しながら自分を磨いていく理性的存在者である」という
解釈をするならば、辛苦とは、決して苦しくて辛いものではなく、「自分を高める上で”必要不可欠な道筋(道程)”である」ということがで
きます。
人間には、皆、「自分を高めたい」という願望があります。「自分を高めるそのプロセスにおいて、”辛苦”は必須の経験である」ということ
が明確になった今、その”辛苦”をしっかりと味わい、楽しんでしまったらいかがでしょうか。
「”辛苦”を楽しむ」、・・・・・実際のところ、一般的には少々難しい考え方ですが、「たった一度の人生においてしっかりと自己実現を図り
たい」という願望を持っている人にとっては、まさに、”妥当性のある考え方”であるといえます。
[追記]
本稿で述べる「辛苦」とは、「自分を高めたい」と切望する人にとって必要不可欠と思われる”人生における様々な困難”を指す
ものです。本稿は、「人生を生きる」という行為について極めて前向き・建設的に捉える観点から、「困難から逃げ、安易な道を
選ぶと自分を成長させることができない」という趣旨で書かれた内容です(本稿で述べる”辛苦”とは、重い病気を患い、日々、
耐え難い苦痛に苦しんでいる方々の病状を指すものではありません)。
2011年4月3日(日)
人間は、少々専門を深めると、頗る盲目になる
・・・医師という職業を具体例として
言うまでもなく、「専門を深める」ということは、実に価値ある行為であるに違いありません。例えば、1)「高校を卒業し、法学部に入学。
その後、ロー・スクールを経て、弁護士資格を取る」、2)「高校を卒業し、医学部に入学。医師免許を取得し、医師として病院に勤務す
る」など、通常、10代において何らの専門性をも持っていなくても、自分が望む教育を受け、そこでしっかりと勉強をすれば、その専門
の道に進むことが可能となります。
弁護士や医師に限らず、人間社会には、実に様々な職業専門家が存在しています。「専門を深める」という行為は、実に素晴らしい
行為ではありますが、大抵の場合、深く専門を極めようとすればするほどに、その専門分野以外の分野・事項について、少しずつ盲目
になっていきます。
専門を深めると盲目になる事例としてその様相を顕著にうかがうことができる職業の一つは、「医師」という職業。そもそも、医師は、単
に、大学医学部を卒業し医師免許を取得しただけの"medical practitioner"(医療実務家)。医師は、間違いなく、”医療(medicine)を
実践(practice)する存在者なのですが、日本社会では、医師は、他の職業人と比較すると、必要以上に尊重される職業の一つ。社会
経験の無いごく普通の若者が医学部を卒業して医師となるだけで、周囲の人々から「先生」と呼ばれ、「病院」という、”一種独特の
治外法権圏域”において毎日を過ごすことになります。「病院という”一種独特の治外法権圏域”は、本当に”一般社会の一部”なので
あろうか」、この問題は、医師でない一般の人々における問題というよりは、実は、医師たち自らが深く考えなければならない極めて
重要な問題といえるものです。
悲しい現実ですが、病院においては、「一般社会に存する常識(道徳意識)を顧みない医師が、一般社会の常識を熟知した患者に対し
て”極めて非常識に接する”」という行為が、毎日、繰り返し行われています。
医師の中には、「医学の研究、即ち、病気の治療法には興味があっても、人間そのものには興味がない」という人がいます。ここで、
そのような医師の割合を正確な数値で示すことには難しさがありますが、本稿を読む読者の皆さんにおいても、病気になって病院に
行ったとき、多かれ少なかれ、”社会常識の無い医師”と接した経験があるものと想像します。
無論、常識のある医師も確かに存在します。しかし、実際、多くの医師の場合、「病気の治療法についての研究は頗る熱心ではある
が、人間とのコミュニケーションには関心がない」という、”人間として大切にするべき根本の根本”が欠如しているという医師は、日本
のどのような医療機関に行っても存在します。
深い意味での”学問”として医学を捉えるならば、医学は、言うなれば、「人間学」。そうした観点から述べるならば、医療に携わる医師
は、医学の研究においては、単に、”医術”にばかりその関心を向けるのではなく、「人類」(mankind)という立ち位置から、人間研究の
一貫として医学を総合的に捉えることが必要不可欠である、と私は考えます。
”医術”しか興味のない医師は、単なる”技術屋”です。技術は、それ自体がどのように優れていようとも、その技術をいかに運用・活用
していくべきかという根本問題について深い考察・研究を試みない限り、それは、”極めて表面的な技術”でしかありません。
医師は、「人間の尊厳」(human dignity)について深く哲学し、”人間学の一部門”として医療を総合的に見据えていくべきだと私は考え
ます。総合的に医療を見据える上で第一に考えるべきことは、一にも二にも、「医師は、一体何のために医療を行うのか」という根本
問題です。「経験を積んで、より上級のポストを得るためなのか」、それとも、「患者の病気を治療し、患者本人の幸福を実現する一助と
なるためなのか」、・・・・・この答えは、言うなれば、”子供でもわかる極めて明確なもの”と言えるでしょう。
医師が、”一個の人間”として、真に大切な問題について盲目にならない方法の一つとして考えられることは、たとえ今現在、医師とし
て働いていても、一度、(勇気を持って勇敢に)医療現場から離れ、医療とは無関係の仕事をしてみるということです。
一年間、医療とは無関係の仕事をすると、これまでの人生において気づかなかった様々な重要なことがより鮮明に見えてきます。
「あー、そうだったのか。このような場所でこのような人が、こんな気持ちで仕事をしていたのか!」、「世の中のしくみは、実際は、
こうだったのか!」という如く、毎日、これまでの自分の人生においては知り得なかった様々な様相が見えてきます。
現実問題としては、医師にとって、「一年間、医療現場から離れる」ということは不可能でしょう。上記の記述は、いわば”例え話”です。
しかし、一年間、医療現場から離れることは不可能であっても、”極めて理性的に”、「自分自身における固定観念、そして、ものの
見方・考え方」を洗い直すことは可能だと思います。
より視野の広い医師となる上で必要なことは、「自分は、医師である前に、一般社会に生きる”一個の人間”である。自分は、一般社会
に生きる”一個の人間”として、一体いかに生きるべきなのだろうか」という問題について深く思索することです。さらに深く述べるなら
ば、この問題について思索するとき、”頭の中の理屈”として思索するのではなく、「この地球に存する一個の理性的存在者として、
自分自身の”腹”で哲学する」ことが重要となります。荒れ果てた大地の上を、勇気を持って勇敢に、土の感触を自分自身の”素足”で
感じ取ることが最も重要な経験となります。勇気を出して、靴も靴下も脱ぎ、自分自身の”素足”で大地を歩いてみてください。そうする
と、これまでの人生において決して気づくことのなかった「大切な気づき」(英知)と出会うことができます。
16世紀フランスにおいて、解剖学を外科に応用し、近代外科学の基礎を築いた外科医、アンブロアズ・パレ(Ambroise Pare, 1510-90)
は、"Je le pansay Dieu le guarit."(余包帯し、神これを癒し給う)と唱えました。パレは、「外科医は決して驕ってはならない。癒すのは
医師のみでなく、神から人間に与えられた自然治癒力が癒すのだ」と述べ、医師に対して、「一個の人間(不完全な存在者)として、
”謙虚な姿勢”を持つことの重要性」を訴えたのです(生井利幸著、「人生に哲学をひとつまみ」(はまの出版)、p.204参照)。
医師における謙虚な姿勢、これは、”医術”としての問題だけでなく、まさに、「一個の人間として持つべき謙虚さの重要性」にも直結す
る問題でもあります。医師は、どのように長く医療に携わったとしても、このことについて”腹の底から”深く哲学しない限り、所謂、
”医療の理想郷”に到達することはないでしょう。
2011年2月18日(金)
理性を宿す土
2011年を迎えた今、読者の皆さんに哲学詩を捧げます。
理性を宿す土
生井利幸、、、、、、、、、、、、、、、、
心が渇く
心の中の、まさに、”底”から湧いてくる熱情は、
心の真空の部分に”渇き”をつくる
私は、この渇きを満たしたいという一心で、
無秩序に、無数の活字を噛み、そして、また噛み締める
だが、どのように噛み締めようとも、この渇きが満たされることはない
西洋における尊厳性に大きく落胆した後、
しばらくの間、出口のない暗闇の中で、
これまでの人生において経験したことのない辛苦に耐え忍ぶ
そして、ようやく、もがき苦しみながらも、
東洋における尊厳性を全身全霊で感じ取り、そこに”光り輝く歓喜”を見た
今、目の前に、”理性を宿す土”が見える
人は皆、幼い頃に土をいじる
だが、やがて、人は成長し、
いじった土、そして、その匂いまでも忘れてしまう
今、私は考える
人は、幼い頃、自分の手でいじった土の感触と匂いに再び目を覚ましたそのとき、
まさに、土をいじりながら、
”生きる”ということの意味と重さについてひしひしと感じるようになるのだ、と
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植物は、心を込めて愛すると、人間に清らかな色を見せてくれます(自宅にて撮影)。
2011年1月13日(水)
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